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信仰によって現実を生きる

説教要旨(5月12日 朝礼拝より)
ヤコブの手紙 2:17-26
伝道師 新佐依子

 ある本に興味深い譬え話が紹介されていました。酷い干ばつが続いていたある村で、教会の牧師が村人に「皆で一週間断食して祈ろう。その後で、次の日曜日に私が雨乞いの祈りを献げる」と言います。村人たちは一週間断食をし、一所懸命祈りました。次の日曜日、礼拝堂は村人で満員になりました。ところが牧師は「私は雨乞いの祈りはしない。あなたたちには信仰がない」と言います。村人たちは驚いて、「私たちはちゃんと断食して祈ってきました」と言います。すると牧師は、「ではなぜ誰も傘を持ってこないのだ」と言ったというのです。
 私たちは朝起きて天気予報を見て、帰宅する頃には雨が降るという予報が出ていたら、たとえ今降っていなくても傘を持っていきます。雨が降るということが自分の現実に直結した問題であるために、傘を持っていくという行動が、自然に引き起こされるのです。それなのに、一週間も断食して祈っていながら、牧師が雨乞いの祈りを献げるという時には、傘を持っていくという行動が引き起こされない。「神様がすべてを支配し、導いておられる」という信仰が、自分の現実に直結していないのです。ヤコブ書は「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだもの」(17)だと言います。
 私はしばしば「神様はいつも、私たちに一番良いものをくださる」という話をします。神様は、イエス様に結ばれて神の子とされた私たちのすべてを、終わりの日の完成に向けて導いてくださっています。ですからどんなときも、私たちに与えられているものは、その日に向けて必要な「一番良いもの」なのです。そうであれば、私たちには今日という日が良い日か悪い日かなど問題にはなりません。それよりも、今日は神様が下さった一番良い日なのですから、それをいかに大切に生きるかが大事です。
 ノートルダム清心学園の前理事長・渡辺和子さんは、修道院で食堂のテーブルに夕食用の皿を並べるという奉仕をされた時、その席に着く人の顔を思い浮かべながら、「お幸せに」と祈りつつ並べたそうです。テーブルに皿を並べるなど、ロボットでもできる仕事です。でもそれが、神様が私に今為すべきこととして与えて下さっているものであれば、大切な使命です。それをロボットでもできるような仕事にしてしまったら、せっかく神様が下さっている「一番良いもの」を無駄にすることになります。
 信仰によって引き起こされる行いというのは、自分に与えられたこの現実の中に神様がおられると信じて、その時その時を大切に生きるという在り方です。それは、「お幸せに」と祈りながらお皿を並べるというような、日常生活の小さなことである場合がほとんどです。しかしその一方で、信仰はいざという時に、冷静で力ある行動を引き起こしてくれるものでもあります。そのような行動に出た人の例として、ヤコブ書はアブラハムとラハブを挙げています。
 今日はアブラハムがイサクと共に山を登っていくところをお読みしました(創22:6-8)。二人はこれからイサクを焼き尽くす献げ物として献げるために、一緒に歩いていくのです。しかしここを見る限り、アブラハムには絶望も嘆きもありません。とても静かな親子の光景です。おそらくここに至るまで、アブラハムはそれこそ血の滴るような祈りを祈ったことでしょう。しかし聖書はそのことを何も語っていません。聖書の語るアブラハムは、とても静かで穏やかです。
 この穏やかさこそが、信仰によって起こされる行動です。アブラハムは今この瞬間の現実に神様がおられることを信じて、その時を大切に生きていました。先のことはその時に「きっと神が備えてくださ」(8)います。だから今は、「わたしのお父さん」と呼ぶ我が子に「わたしの子よ」と応える。「二人は一緒に歩いて行った」と、聖書は二度も繰り返しています。イサクと過ごす今この時を大切に生きるアブラハムの姿がそこにあります。これこそが、ヤコブ書の言う「信仰による行い」なのです。