ホーム | 説教 | 説教(2019年度) | 主にある救い

今週の説教

主にある救い

説教要旨(6月23日 朝礼拝より)
ヨナ記 2:1-11
伝道師 杉山悠世

 御心に背いたヨナが神さまとの正しい関係に引き戻される最初の場面です。ヨナ書から想起した出来事を紹介します。一つはジョン・ニュートンがイギリス「アメイジング・グレイス」の作詞をしたきっかけです。彼は商船の船長をしていた父と、熱心なキリスト教徒の母のもとに生まれました。ニュートンも船乗りになり、様々な船を渡り歩き、行きついたのは奴隷船でした。ある日彼が船長を務めていた奴隷船が嵐に見舞われました。死の瀬戸際で彼は初めて神に祈ったと言います。一命をとりとめ、神に感謝し、奴隷貿易をやめ、この体験を詩にしました。信仰とは自分の弱さを認める事、無力である事を受け入れる事です。彼の証と賛美によってW・ウィルバーフォースという青年が政治家になり、1833年イギリス全域における奴隷制度の撤廃を実現しました。果たして、死に直面した時のニュートンは自身の祈りがここまで世の中に影響を与えるものであると予測出来たでしょうか。自分自身の為に祈ったに過ぎないのです。奴隷商人から、神さまから愛される者である事を語る者とされた彼の言葉がウィルバーフォースという政治家を誕生させました。
 ヨナ2章3節の「叫び」はヨナの今わの際の祈りです。ヨナは彼自身の苦難、迫り来る死の恐怖の中で叫ぶようにして祈りました。ネベヘ行くように言われてから、初めて神に祈ったのです。「祈りをささげた」とされている元の言葉は「祈った」と訳せるのですが「祈った」という動詞は「自分自身で~する」と訳すことがでます。ヨナは自分自身の為とりなしの祈りをしたのです。預言者は神の言葉を伝えるだけではなく、罪を負った個人や民の為の代弁者として、罪の赦しと罰を免れる事を神に祈り願う事も役目でした。それが、とりなしの祈りです。とりなしの祈りで捧げられる犠牲を、贖罪の捧げ物と言います。罪の代わりの犠牲となるのです。贖罪の贖とは「あがない」です。贖いという言葉は主に捕虜や奴隷になった仲間を身代金を支払って取り戻す事です。状況によって贖うべき人が定められています。例えば、家族を亡くした人、保護が必要で身寄りのない人等は親族がその義務を負いました。ヨナは自分の為に祈りました。ヨナは自ら神さまに背を向けたのに「追放された」と思っていました。これまで「神さまから逃げる」という、自分主体の思いに突き動かされていたヨナは、自分ではなく神さまが全ての主体である事、自分がこれまで思い違いをしてきた事に気づかされたのです。だからこそ、負いきれない罪、神さまから逃れてその御顔を避けた罪を贖って頂く為に祈ったのです。すると、神さまはヨナの祈りを聞かれました。しかし、神さまにどんな責任があるのでしょうか。神さまはヨナの創造主ではありますが、肉親ではありません。ヨナに捧げる犠牲の供え物はありません。それでも、神さまはヨナの祈りを聞いれられたのです。
 人が担う義務や責任は必ずしも本人の意志に添う物ばかりではありません。ヨナはニネべの民が赦される事を知っていました。3章でヨナの預言を聞いた人々は神に立ち返り、ゆるされます。4章で、災いをやめた神さまにヨナは怒りをあらわにします。ヨナは自分が荒れ狂う海の中で命を救われたように、ニネベにも神さまの救いがあるとわかっていました。また、ヨナ自身、神の恵みと憐みを語らずにはいられなかったのです。それでもヨナは御言葉の意味全体を理解できずに、自分の枠に押し込んでいました。誰に対する救いもそれは神の御心次第ですヨナは未だ悔い改めの途上にありました。未完成の信仰ですけれども、神さまはそのままのヨナを受け入れ、遣わされました。神さまの忍耐によって私たちは新たな使命の中で生きる事を赦されています。「救いは、主にこそある」という言葉は「救いは主のものである」と言い換える事もできます。救いは主のものであり、主にのみあるのです。