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まず砕かれてこそ

説教要旨(10月6日 朝礼拝より)
ローマの信徒への手紙 7:7-23
牧師 藤盛勇紀

 あのノアの時代、神は地上に人の悪が満ちるのを御覧になって、大洪水によって地を一掃しようとします。洪水の後、ノアの一家と動物たちが箱舟から出たとき、神はご自身の御心に言われました、「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。私はこの度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい」と。なぜ、神は人間を見限らないのでしょうか。人が心に思う悪さとは、いったい何なのか。
 イエス様は人の心をご覧になって、しばしば嘆かれました。それは一言で言うなら、「かたくなさ」です。神に対して素直になれず、自分にこだわり、神の御心を知ったとしても反抗する。たしかに、人間の「反抗期」は自我の形成や成長に重要な意味を持ちますが、反抗しないと自己を形成できないところに、人間の一種の歪みが現れているのではないでしょうか。人は善いものに触れたからといって、必ずしも善くなるわけではない、かえって悪を生む。人間の不思議な現実、転倒し歪んだ姿です。
 パウロは言います。「では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう」。そして、「律法は聖なるもの」「善いものなのです」と。神の律法は、人間のひっくり返った姿を暴き出します。人間は決して真っ直ぐではなく、歪み、傾き、真っ直ぐに神に向かうことがない。その《的外れ》が、まさに聖書の言う「罪」です。
 それをパウロは自分のこととして告白します。「善をなそうという意志はありますが、それを実行できない」「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」。
 外側をどんなに善い物で固めてもレントゲンで透かされたら一目瞭然。神の律法に晒されると人の心の頑なさが暴かれます。かつてのパウロがそうでしたが、律法を守ることによって正しく生きようとしたファリサイ派のような人々は、かえって傲慢に、頑なになりました。神に対しても人に対してもガチガチに固まり、「こうでなければ、ああでなければ」と、余裕もなければ潤いもないコンクリートのような揺るぎない自分を作ってしまった。そのコンクリートは砕かれなければならないのです。
 パウロはここで、砕かれる自分を晒し、赤裸々に自分の弱さを告白します。ある人は「パウロが壊れていく」と言いましたが、「砕かれる」ことと「壊れる」ことは違います。詩編51編でダビデは「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」と言います。「砕かれる」とは、《誰かによって》砕かれる経験です。自分で砕くのではなく、《あの方が》私を砕く。深く醜い罪を犯したダビデは、「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」と呼びかけ、求めました。神よ!新しく確かな霊を授けてください! 問題は、人間の力不足や努力不足ではない。霊の欠如、聖霊の欠如。「私が」「私の」と頑張るばかりで、実は神がいないのです。
 ファリサイ派のような人たちは、自分の力や自分の知恵、自分の努力によって、自分を固めてしまいます。それを砕くのは、人の力でも知性でも、人の誠実さでもない。《神の霊》、生ける神ご自身です。
 ダビデは醜く汚れたままの自分を、神の前に曝け出しました。「打ち砕かれ悔いる心を、神よ!あなたは侮られません!」これは驚くべき信頼・信仰です。神によって砕かれるとは、自分の醜さも恥も晒していることです。しかし、神はそれを侮らない!
 もしあなたが神によって砕かれているなら、そこで実はあなたは神の前に守られているのです。だから自分の弱さ、惨めさに悲しんでいる者は幸いなのです。神がその人を慰め、神が恥を受けている者を生かし、神が用いてくださるからです。