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キリストの言葉を聞く

説教要旨(5月17日 朝礼拝より)
ローマの信徒への手紙 10:14-21
牧師 藤盛勇紀

「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」。決して、私たちの内から自然に生じたり、沸き起こってくるようなものではありません。「キリストの言葉」とあります。これは、ヨハネ福音書の有名な冒頭の「言」(ロゴス)とは違って、実際に語られた言葉です。《語り・聞く》関係は、「私とあなた」という人格的に向き合う《対面》を生みます。書かれたものを読むのは、自分一人で自分の都合の良い時、自分の都合の良い場所で読めばよい、「自分」次第。しかし、語られるとなると、その時その場で聞かなければなりません。「ライブ」です。神は生きておられるから、神の語りは常にライブなのです。
 聞いた者は《態度決定》することになります。「もう聞かない」という決定もあり得ます。パウロは言います、「すべての人が福音に従ったのではありません」。そして、預言者イザヤを引用します。「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」。
 福音とは《良きおとずれ・喜ばしい知らせ》。ところが人はそれを聞かず、応えない。そのような現実に直面します。なぜ人間は御言葉に聞けず、素直になれないのか?
 「それでは、尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのだろうか?」。「いや、聞いたのだ!」。「その声は全地に響き渡り、/その言葉は世界の果てにまで及ぶ」(詩19編)。神の言葉は「聞こえない」のではない! むしろ大きく轟き響き渡ったではないか!
 ところが、イスラエルという《聞こうとしない民》《分からず屋の民》がいる。神の民イスラエルには、響き渡る神の言葉が《聞こえていない》。神の言葉そのもの・救いそのものであるキリストとその言葉を、神の民が聞いていない。
 旧約からの引用が続きます。「わたしは、わたしの民でない者のことで/あなたがたにねたみを起こさせ、/愚かな民のことであなたがたを怒らせよう」。「わたしは、/わたしを探さなかった者たちに見いだされ、/わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した」。「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」。
 神は、「不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」、手を差し伸べ続けたのです。ただ、それは神様からの一方通行だった。神は一日中手を差し伸べたのに、それなのに、人間は「聞かない」。この《一方通行の神の思い》。ここに預言者やパウロや伝道者たちの思いが触れ合います。イザヤも驚きをもって叫びました。「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」。
 神の憐れみと救いの御言葉が語られる。なのに、「聞かない・信じない」という悲劇的な現実があります。しかし、それを含めて伝道は楽しく、伝道者は喜んでいます。《福音》がそういうものだから。《神が一方的になさったこと》だからです。神はご自身の愛も救いも押し売りをなさいません。ただ知った者が告げ知らせることしかできない。だから計算も法則化も方法論もない。
 語り告げられたことが聞かれ、信じて応答されるとしたら、それはまさに神の御業であり恵みの出来事であり、奇跡です。だから伝道は本当に楽しいのです。人間の計画によらず、人の手の内にないからです。
 神の民イスラエルが「聞かない」のは、全ての人間の態度をも象徴していますが、神の言葉が「聞こえない」のでなく「聞かない」人間の「勝手な決め」であって、どうにもならない絶望すべき宿命ではない。だから希望があります。聞かない人が確かにいるけれども、態度を変え、頑なな魂が砕かれて「聞く」人も確かにいる。神がそれを起こしてくださっています。それが、イスラエルと異邦人との関係にも現されたのです。聞かない民、聞こうとしない世に、神は語り続け、人間の魂を外から叩き続けているのです。