神の言葉を聞く者
説教要旨(3月30日 朝礼拝)
マタイによる福音書 13:1-23
牧師 藤盛勇紀

「種を蒔く人のたとえ」は、主ご自身の説明もあり、とても分かりやすいものです。しかし不思議なのは、たとえを用いて話す理由です。「あなたがた(弟子たち)には天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていない」。この例え話は、実は「秘密(秘義・奥義)」で、主が許した人にしか分からないのです。人の理解力の問題ではありません。奥義を知るには、主から与えられるしかないのです。弟子たちに対して、主は言われます。「あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ」。では、弟子たちは理解したのでしょうか。彼らは、イエスご自身のこともその言葉も理解せず、主を裏切り、見捨ててしまいます。
すると、この例え話はいつ、誰に理解されるのか。主はこの後、天の国についての例えを次々と語られます。毒麦、からし種、パン種のたとえ、畑に隠された宝、高価な真珠、網で魚を集めるたとえ。そして最後に「新しいものと古いものを取り出す主人」の話。これらはみな神の国の秘義・奥義で、許された者にしか悟ることができません。
この「種を蒔く人のたとえ」について、マルコ福音書では「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか」と主は言われます。このたとえが分からないと、他のたとえも分からない。例え話自体はとても分かりやすいのです。多くのキリスト者は、「ああ、これは御言葉の種を蒔くことだ、福音伝道だ」と思います。それは間違っていません。ただ、イエス様のたとえ話を聞いている群衆も弟子たちも、「御言葉を宣べ伝える」とか「伝道する」といった発想は全くないのです。異邦人に福音を語るとか、元々同族のサマリア人にさえ、神の国の福音を知らせるなど、全く考えもつかないことでした。
だからこの時、主が語っておられることの意味と言えば、せいぜい同族のユダヤ人に対して、メシアの到来による神の国の実現というビジョンを示して、その時が来たのだと知らせることくらいまでです。しかし、それならば「秘密」ではなく、旧約聖書が語っていることですから、多くの人に理解できるはずです。しかも、すでにイエス様は神の国は来た、と告げておられますし、ご自身の業によって「神の国は来ている」と宣言されました。なのになぜ、その神の国は「秘密・奥義」だと言われるのでしょうか。しかも、弟子たちにはその「秘密を悟ることが許されているが、他の群衆には許されていない」。なぜなのか。
それは、この後に続く例え話と一緒に理解する必要がありますが、「種を蒔く人のたとえ」については主ご自身が説明しておられる通り、分かりやすいのです。しかし、分かりやすいのは、自分で理解したからではありません。ただ「許された(与えられた)」からです。そのことが分からなければ、「分かりやすい」と思っても、それは単に頭で分かっただけで、「石地」や「茨の中」の種で終わって、「良い地に蒔かれた種」にはならない。み言葉が自分の真の命にならないまま世に埋没することになります。み言葉は「種」です。小さくてもそれ自体に命があります。この種が私たちの内に本当に蒔かれたなら、種そのものが芽を出し、茎が伸び、実りをもたらします。
この例えを理解する人、分かる人というのは、主が悟りを与え、理解させてくださった人です。その人たちに何か一定のレベルが要求されるわけではありません。主は誰にでも与えてくださるお方です。主は、誰でも受ければ得られるように、ご自身を与えてしまわれるお方です。恵みそのもの、命そのものです。だから、主が語られる例え話を理解できる人は、一部の人に限定されるというものでなはく、知りたいと願う人、求める人には、誰にでも開かれているし、得る人には惜しみなく与えられるのです。それをいただいた人が、持っている人、豊かな人です。「持っている人は更に与えられて豊かになる」。それを、自分の人生で味わっていくのです。
このイエス様の例え話、その言葉は、理解が困難な言葉なのではなく、「さあ取れ、受けよ」という、主の約束の言葉なのです。主は、それを私たちが自分の命として受けることを願っておられます。