天の国のことを学んだ者
説教要旨(4月13日 朝礼拝)
マタイによる福音書 13:36-52
牧師 藤盛勇紀

イエス様は、この13章の始めから続いている一連の天の国のたとえを語られた後、「天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」と言われます。ここで「天の国のことを学んだ学者」と言われるのは皮肉です。この「学者」とは、ふつう律法学者のことですが、律法学者とファリサイ派の人々は、イエスは悪霊の頭だと断じ、すでにどのようにしてイエスを殺そうかと相談を始めています。一方、主の弟子たちは「分かりました」と調子よく答えていますが、実は何も理解していません。むしろ、「学者」と聞いて不思議に思ったでしょう。彼らが律法学者たちと比べられたら、「とてもじゃないが俺たちが学者だなんて思えない」と。
主は、「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」と言われました。律法学者やファリサイ派ほど、自分は神の前で義とされるに相応しいと思っていた人はいません。その律法学者たちにまさる義とは、自分のために死んで復活されたイエスの霊に触れられ、イエスと一体とされることにしかありません。死から復活した御子の霊が私を神から生まれた者としてくださった。このイエスと一つとされて新しく生まれた私はすでに義なる者、真の意味で非の打ち所も傷も無い者。神は、イエスと一体とされた私を見てくださる。そのように、私はすでに、イエスにあって義人。それは、かつてのパウロが考えていたような、自分の知恵や力や正しさなどとは全く関係ありません。ただ恵みとして与えられているから、信じていただいただけです。人間の業ではなく神の業、神がなさることです。
イエス様は「毒麦のたとえ」を説明されます。まだ誰も想像もしなかった「教会」のことです。やっかいなのは、良い麦と毒麦は人には見分けがつかないことです。麦を分別するのは、終わりの時の天使たちの業です。
畑に隠された「宝」は何でしょうか。神は、「あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる」「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は…あなたを選び、御自分の宝の民とされた」と言われました。それはただ、「主の愛のゆえ」だと。
この宝は、人には分からない神の宝です。全てを犠牲にしてその宝が埋まった畑を買うのは、もちろん主ご自身です。私たちは御子の血によって買い取られたのです。そして、秘密・秘義としての天の国すなわち教会の時代が生まれ、主が再び来られる時まで続き、終わりの時に選別が行われます。それを為すのは私たちではなく天使です。
この時弟子たちは全く理解できませんが、いずれ彼らは「天の国の秘密」を知ります。すると「自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人」のように、自分の「新しいもの」と「古いもの」を自由に用いることができます。新しいものは、イエスによって初めて開かれる自らの命と世界です。
今私たちが生きている時代は、聖霊によって開かれた教会時代。この時代もいずれ終わりますが、その時まで良い麦と毒麦は一緒に成長します。「善と悪」「義と不義」「本物と偽物」が共存するのです。しかし、すでに私たちが義とされるための贖いは、御子イエスの死と復活と、命をもたらすイエスの霊によって完了しています。このイエスと結ばれて新しく生まれた者は、自分の内の「古い自分」と「新しい自分」の共存のために悩み葛藤し、肉において罪を犯しながらも、希望を失うことはありません。
むしろ、罪を犯す肉をひきずりながらも、この死ぬべき体を通して、かえって神の愛と憐れみと恵み深さ、そして何よりこの体を生きてくださっているイエスの命を現す者とされているのです。それは、パウロが言った通りです。「私たちも、「いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。…死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために」(2コリント4:7~11)。
私たちは今、そのように隠されていた秘密・秘義だった、キリストの体なる教会を生きています。そして、私たち自身の内に、イエスご自身が生きておられるのです。この救いを、イエスご自身が完成してくださいます。