イエスの家族
説教要旨(3月23日 朝礼拝)
マタイによる福音書 12:46-50
牧師 藤盛勇紀

珍しくイエス様の家族が来ていますが、主を囲む人々の外に立っています。ある人たちが言います。「母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」。ところが、主の答えは、「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか」。せっかく家族が訪ねて来ているのに、何と素っ気なく冷たい言いようでしょうか。ただ、イエス様の家族も積極的にイエスに近づこうとしていません。
ここでの話は15節から続いています。メシアにしかできない悪霊追い出しと癒やしをなさったイエス様の業を見て、「群衆は皆驚いて、『この人はダビデの子(メシア)ではないだろうか』と言った」。ところが律法学者やファリサイ派の人々は、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と断定しました。そこで、イエス様は言われます。「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。大胆な宣言です。
なのに、イエス様の家族は近づいて来ない。実は彼らは、「イエスは気が変になった」と思って取り押さえに来たのです(マルコ3:21)。気が変になったイエスを家に戻してやりたかった。最も親しい者たちの愛です。家を出て行ってしまったイエスは、何か生きる世界が違ってしまったと感じていたでしょう。無理もないことです。「神の国」という、全く新しい世界が始まっているからです。新しい神の支配、新しい秩序、新しい世界が来ている。それを、イエス様は宣べ伝えておられます。その新しい世界で、私たちは新しい命に生かされるのです。
そこにある命とそのつながりは、血のつながりよるものではありません。神の国は、神から生まれた神の子として生きる国なのです。神から生まれた子たち、「神の家族」が造られつつあります。
そこでイエス様は言われます。誰でも私の天の父の御心を行う人が、私の家族なのだと。
父なる神の御心とはどんな御心でしょうか。「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。私たちに与えられた独り子を信じて、永遠の命・神の命を得ること。そしてこの方によって、神から生まれた者となること。それが父の御心です。
そのために、独り子は十字架の死へ向かいます。このことは、弟子たちは知らないし、ついにイエス様の死に至っても理解しませんでした。イエス様はまさに独り、十字架の死に赴かれたのです。そして十字架の上で、本当に父から見捨てられる独り子の、絶望の叫びを上げます。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」。この真の絶望を知ったのは、父の独り子である真の御子だけです。独り子が父から捨てられたから、このイエス様に結ばれる者は、二度と父から見捨てられることはありません。むしろ、神の子。神から生まれた者とされるのです。
そしてイエス様の復活によって、私たちの罪の裁きとしての死は打ち破られ、復活の主の霊が「命の霊」として、信じる者たちに注がれました。この命の霊によって、私たちは独り子イエスと一つの命につながれたのです。「神の家族」は、ここに生まれます。
神の家族とは、血縁の家族のつながりをより純粋にしたものだとか、より親密なつながりなどではありません。もちろん、互いに親しい関係が生まれることはけっこうなことですが、そうした親しさは神の家族に不可欠なものではなく、親しさが神の家族を造るわけでもありません。神の家族とは「父の御心を行う」者たちのことです。人と人との親しさではありません。どれほど親しくて強いきずながあっても、天の父の御心を知らなければ、神の家族ではないのです。
主は、「互いに愛し合いなさい」と言われたが、「互いに親しい関係を築き、絆を深めなさい」とは言われませんでした。そうではなく、「私につながっていなさい!」です。主が私たちに求めておられることはそれです。イエス様とつながることが、「主の愛に留まる」ことです。私たちはイエス様と一つとなることで、神を「父よ」と呼びます。ここにのみ、主の家族、神の家族があります。