賛美と感謝の主
説教要旨(6月29日 朝礼拝)
マタイによる福音書 5:29-39
牧師 藤盛勇紀

イエス様が僅かなパンと魚で4千人もの人々を満腹させた奇跡。14章の5千人の給食の奇跡を思い起こさせます。この2つは良く似た出来事ですが、次の16章で、この出来事の意味を理解しない弟子たちを主は責なさいます。イエス様が大勢の病人を癒やされたこともそうです。同じ事の繰り返しに見えても、実は新しい事が始まっているのです。
少し広い文脈で見ると、イエス様はある目的と方向をもって進んでおられます。前回の「カナンの女の信仰」の話から今日の箇所は、独特な地理上の動きがあります。ガリラヤから「ティルスとシドンの地方」(異邦人の地)に行き、異邦人の女との出会いがありました。29節では「ガリラヤ湖のほとりに行かれた」とあり、元の地に戻って来たように思われます。しかしマルコ福音書を見ると「デカポリス地方を通って」ガリラヤ湖に来たとあります。ティルスとシドンの地方から一旦ガリラヤを迂回するように異邦人の土地を通ってガリラヤ湖、その東側に来ています。
その地でイエス様が山に登って座っておられると、いつものように大勢の群衆がついて来ました。やはり多くの病人や体の不自由な人たちも連れて来られました。ふだんの光景ですが、この群衆はほとんどが異邦人です。だから癒やしの奇跡を見て、「イスラエルの神を賛美した」のです。ユダヤ人の間で行っていた癒やしの業を、今は異邦人にもなさる。そして、この4千人の給食の奇跡です。
イエス様は弟子たちに言われます。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない」。「かわいそうだ」を直訳すると「私は、憐れむ」です。「憐れむ」は「はらわた」という言葉から来ていて、ある訳では「私は、はらわたのちぎれる想いがする」。特に主の愛と憐れみを表現する言葉です。
神の愛も憐れみも、その恵みも祝福も知ることなく、「飼い主のいない羊」のような群衆を、主は「はらわたのちぎれる想い」でご覧になっています。もう三日も一緒だ。遠くから病人たちも連れ、どんな思いで来たのか。弟子たちは、異邦人に憐れみを抱く様子はありませんが、イエス様の憐れみは、はらわたが千切れるほどに極みに達しています。
しかもこの群衆は「イスラエルの神を賛美」しているのです。ああイスラエルの神はなんと素晴らしいお方なのか! このほめたたえは、生きて働かれる神に触られた経験をした者からしか出て来ないものです。イスラエルを憐れまれる神は、何と私をも憐れんでくださっている! 異邦人がほめたたえ、異邦人が変えられています。あのカナンの女も、イスラエルを憐れまれる神に信頼しました。そして、その憐れみに触れられたのです。イスラエルの神の圧倒的な力と栄光、それは、この私のためという量りがたく大きく深い憐れみ。それがこのお方イエスに現れている!
弟子たちはそれに気づいていません。私たちには想像もつかない、ユダヤ人から見た異邦人の遠さが、無感覚にしているのでしょう。しかし、はらわたが千切れるほどの憐れみで群衆を見つめるイエス様の眼差しは、そこにいる一人一人を貫いて、すでに遠くエルサレムを見ています。この多くの人々のためにご自身の肉を裂き、血を流す十字架の死を目指しておられる。だからこの後、16章と17章で、それを弟子たちにはっきりとお示しになります。それが始まっているのです。
主はその憐れみをもってこの4千人を養われます。しかも、まだ何も理解していない弟子たちの手を用いてなさるのです。イエス様は既に、ご自分の命を注ぎ出しておられます。このことがいかに大きな祝福を、いかに多くの人々にもたらすことになるか。主はそれを知って、僅かなパンと魚を取って、「感謝し、裂いて、弟子たちに与えた」(直訳)。主はご自身を裂いて、私たちに与えることを喜び、感謝しておられます。あの5千人の時もそうです。主は「祝福し、裂いて、弟子たちに与えた」。ご自身を裂いて、与えてしまうことによって、私たちへの神の憐れみと祝福が満たされます。それをイエスご自身が感謝しておられる。だからその命に与って主と結ばれた私たちも喜んで、感謝して、私たち自身がその祝福の基となるのです。