主のもとに生きる
説教要旨(3月1日 主日礼拝より)
マタイによる福音書 22:1-14
牧師 藤盛勇紀
婚宴を用意した王は父なる神、王子は御子イエスです。王は祝宴の用意を調え、準備ができたので、予め招いておいた人々を呼ばせます。ところが、招かれていた人々は来ようとしませんでした。王は家来たちを通りに遣わして、見かけた者は「善人でも悪人でも」連れて来るよう命じます。集められた客の中に一人だけ「礼服」を着けていない人がいて、どうして礼服を着ないのか問われても黙っていたので、外に放り出されました。
皆さんは、自分が神から招かれていると思われますか?「神に招かれる人とはどんな人だろうか」とか「神の招きに応えるには、礼服を身につけるように、それなりに相応しいことをして、自分を整えることが必要だ」と考えるかもしれません。しかし、この婚宴に呼ばれた人々は、「善人も悪人も」集められたのです。何の用意もしていない人々です。神は、招きに相応しく準備していた人を招くのではありません。イエス様は「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためだ」と言われました(9:12)。
パウロは、キリストは不信心な者のために死んでくださった、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった。そのように神は私たちに対する愛を示されたと言います(ローマ5章)。それで今や、私たちはキリストの血によって義とされたのだと。その事実を「私たちはキリストを着ている」(ガラテヤ3章)と言いました。
神など知らないと神を侮っている人、そんな人たちがすでに招かれているのです。その招きに応えて、神の祝宴に入るために必要な手続きも、すでに完全に整えられています。
王の祝宴の礼服は、招かれた人自身が用意するのではなく、王が用意し、招きに応じた客に着せてくれるのです。王の祝宴への「相応しさ」は、王が決めます。だからどの客も、着の身着のままで入って恥を被る、ということもありません。王が全て整えてくれた祝いの宴をただで受けて、共に喜び楽しむのです。礼服を着けなかった人とは、相応しい服を王が用意してくれたのに、それを受け取らなかった人です。
予め招かれていた人々は、呼ばれたのに「無視し、一人は畑に、一人は商売にでかけ」ました。これは宗教指導者たちのことですが、私たちのことでもあるでしょう。神の呼びかけに気づいても、心が他所に、畑や商売に向いています。自分の力で生活を成り立たせたい。自分の知恵や力で切り開き耕し、人生を意味あるものにしたい。自分の力で生み出したものの価値を人に認めてもらい、報いを得る。それこそ人生、自分の価値だと思いたい。これは私たちのことではありませんか?
しかし神は、思いもしない所、思いもしない方向から、私たちに呼びかけておられます。それに気づくことから始まりますが、呼びかけに応えてみてから分かることがあります。それは、神の招きに相応しいとはどういうことか、です。この後、聖餐を祝います。私たちのために死なれたキリストの体と血に与って、すでに私たちの罪も汚れも清められていることを確かにされます。聖餐式の勧めの中で、「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります」(1コリント11:27)とのみ言葉を聞きますが、聖餐に与る相応しさとは何ですか? 良い行いや思いをもって生活してきたかどうかということですか? そういうことでしたら、私たちは皆恥じ入るだけでしょう。相応しさは、自分は全く相応しい者ではないと知っていることです。そんな私たちが、恥も恐れもなく大胆に主の宴席に着ける。そのために、主がご自分の肉を裂き血を流された。この事実を、知っている者が相応しい者、大胆に主のもとに近づく者です。
たとえ話は王子の結婚の祝いです。王子の結婚相手は誰ですか? 招きに応えた私たちです。花婿キリストの花婿として迎えられ、神の民とされた私たち(黙示録21章)。その祝いを、この地上で先取りさせていただいているのです。自分は神の祝宴に相応しいのだろうかと内省して、自分で決めようとしたら、死ぬまで神の恵は分かりません。まずは応えてみてください。思いもしなかった祝福が用意されていたことを必ず知ることになります。