『アッバ、父よ』と呼ぶ霊
説教要旨(5月24日 ペンテコステ礼拝より)
ローマの信徒への手紙 8:9-17
牧師 藤盛勇紀
聖霊降臨日(ペンテコステ)に起こったことは使徒言行録2章に記されていますが、あの日弟子たちに降った聖霊を受けるとはどんなことなのか、ローマの信徒への手紙から聞きましょう。神の霊、聖霊を受けると私たちはどうなるのか? イエス様が十字架につけられる前の夜、ご自分がいなくなった後に来る「聖霊」について詳しく語られました(ヨハネ14~16章)。聖霊は何をなさるか、一言で言えば、イエス様が語ったことの意味が分かり、イエスの十字架の死と復活、その出来事に現された真理が分かります。弟子たちにさえ、イエス様に起こる出来事はよそ事でした。彼らは主を見捨てて逃げてしまい、主が十字架につけられた時には雲隠れ。そんな不真実な者のために、イエス様は死なれたのです。
そんなことが、あの十字架でなされていたとは、弟子たちも知りません。ただ父なる神と子なる神イエスだけが知っていた救いの御業でした。しかし、あの十字架の死そして復活は、何の関わりもない「私のためだった」と知って、その恵みをいただくのが信仰です。これは聖霊の働きによるのです。
パウロは聖霊を「神の子とする霊」と言います。聖霊は私たちを「神の子」とし、その喜びを与えます。なぜ喜びなのか。「私のこと」になるからです。そしてそれが「分かる」からです。身を以て分かる時があります。それは祈る時、神と交わる時です。私たちは神を「父」と呼びます。イエス様が「アッバ」と呼んだからです。アラム語で「お父さん」。「アッバ」と、親しいと言うより馴れ馴れしい言葉で神様を呼んだのはイエス様だけです。聖書は神を「父」と表現していますが、親しい呼びかけではありません。でもイエス様は弟子たちに祈りについて教えられた時、「あなたが」祈るときは、「あなたの」父に祈れと言われました。誰も見ていない所で一人で祈る時、そこはあなたとあなたの父との交わりの場。そこで、あなたがあなたの父に祈りなさい、そしてその時、「父よ、アッバ」と言えと教えられました。この何にも例えられない親しい交わりに招かれた者が、イエス様と一緒に「私たちの父よ」と呼ぶのです。イエス様はご自分の死と復活によって、そんな交わりを生み出してくださいました。
私たちも祈るたびに、イエス様に結ばれて、「天の父よ」と呼びます。聖霊は御子イエスの霊です(⇒ガラテヤ4:6)。「アッバ」と呼ぶのは、私たちは神の子だからです。子でなければ、そう呼ぶのはおかしなことです。
私たちが神の子なら、「神の相続人でもあります」。相続人は親が持っているものを無条件に受け継ぎます。私たちは神様のあらゆる良いものをいただくのです。いつも言っていますが、父なる神は気前の良い方、惜しみない方です。あの放蕩息子の父のように(ルカ15章)、はっきり言って親馬鹿です。イエス様は、私たちの父はそういう方なのだ、一緒に喜び楽しむのは当たり前だと言われるのです。
聖霊によってイエス様が分かり、イエスが分かれば神の愛が分かります。神は底抜けの愛をもって私を求めておられる。その父の喜びが分かる。だから「アッバ!」なのです。
幼児が「パパ、ママ」と言うのを見て、「この子は母を信頼している」などと説明する人はいません。もしあなたが神様を「アッバ」と呼ぶなら、そこに説明なんか要りません。親と一緒にいる幼児に、「この人があなたの本当の父母だとなぜ分かる?」などと聞く大人がいたとしたら、相手にしてはいけません。
「霊」は「風」です。風とは何かを説明できなくても、風が自分の頬をなでたら分かります。風は見えなくても、ハッキリ分かる。そして、その力を感じるのは私自身です。「霊」もそうです。私に吹いて来たら、私が受けて私が応える。そこに自分も知らなかった神の力が働き、そこに必ず喜びがあります。言葉では言い表しがたい命の交わりと経験です。なぜそんな経験をするのですか。私たちがまさに神の子だからです。私たちの経験は、父なる神の愛と恵みと忍耐を知って、味わい楽しみ、喜ぶ道です。その全ての経験は「キリストと共に」です。私たちはイエスと一つとされ、イエスにあって神の子、共同の相続人です。今日も私たちが「父よ」と祈る時、長子イエスに肩を抱かれるように、兄弟・姉妹として「私たちの父よ」と呼ぶのです。