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神の支配のしるし

説教要旨(7月6日 朝礼拝)
マタイによる福音書 16:1-12
牧師 藤盛勇紀

 ユダヤ人の宗教的政治的な指導者層ファリサイ派とサドカイ派は、すでにイエス殺害を画策し、訴える口実を掴もうとイエス様を試します。「試す」という言葉が前に出てきたのは4章、主の公生涯の始めに荒野で悪魔から誘惑を受けた時です。悪魔の「誘惑」は「試みる」という言葉。イエスを試みたのは、まず悪魔、そしてこの宗教指導者たちに具体的に現れてきました。人を救う神のご意志と、それを阻止したい悪魔。ただ、悪魔は神に滅ぼされる自分の運命を知っています。なのに、神を侮る人間を、神は救おうとなさる。その愛が悪魔には余りにも妬ましく、自分の運命に人間を引きずり込みたいのです。
 ファリサイ派の人々は、「天からのしるし」を要求します。民衆はイエスがメシアではないかと思っている。メシアなら、そのしるしを見せてほしいと。しかし、実は彼らはすでにしるしを見たのです。メシアにしかできない業を主がなさった時に、この方がメシアだと悟ったのです。ところが彼らは、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と断定しました。イエス様が「偽善者」と呼んだファリサイ派は、人からの尊敬や評価で生きていました。サドカイ派は、神殿祭儀を管理し、ローマの権力とも結託して地位や財産を固めていました。それらは、メシアが到来したら吹き飛んでしまう。ならばメシアを殺してしまおうと。
 イエス様は彼らに言われます。あなたがたは空模様を見分けることができるのに、「時のしるし」を見ることができないのかと。彼らは知っているのです。しかし、見ていても、見ようとしない。以前、イエス様が天の国(神の国)についてたとえで語られた時、「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない」と言われました。そして、弟子たちにはこう言われました。「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのだ」。イエス様がたとえで語られた「神の国」は、聖霊によって開かれれ初めて見えるヴィジョンです。だから、「神の国の秘密(秘義・奥義)」と言われました。
 いずれ弟子たちは悟ります。それはイエス様の十字架の死と復活の後、彼らに聖霊が降ってからです。主の約束通り、聖霊がイエス様の言葉と業の意味を理解させてくださいます。しかし今は悟ることができません。今日の直前の4千人の給食の奇跡も、15章の5千人の給食の奇跡も、「覚えていないのか」「どうして分からないのか」と主は言われ、弟子たちの記憶に刻み付けておられます。
 僅かなパンと魚で何千人もの人を養った出来事に何が表されていたか。それは、主がご自分を裂き、弟子たち渡し、人々に与えしまうことでした。イエス様がエルサレムで成し遂げる十字架の死です。私たちの罪の赦しのためにご自身を裂いて、命を与えてしまう。それを主ご自身が喜び感謝しておられる。「ヨナのしるし」とはそのことです。預言者ヨナが三日三晩大魚の腹の中にいて吐き出されたように、主は十字架で死んで三日目に復活なさる、罪の赦しと新しい命のしるしです。
 「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意せよ」。彼らの教えや生き方は、パン種がパン全体を膨らませるように、大きな影響を与えます。それがメシアを拒否させ、神の救いの恵みを拒絶させます。そんな人間の思いや願望が渦巻く中、神が私たちの救いのために働いておられる「時のしるし」を、私たちは見ることができるでしょうか。
 預言者たちは、神が新しい霊を注いでくださることを預言しました。聖霊降臨の日、それが今起こったのだと、ペトロは他の弟子たちと共に立ち上がって大声で語りました。
 主の霊をいただいたら、神が生きて働いておられる事実を見るのです。今の私たちも、聖霊によって目が開かれて、それが分かるから、主の働かれる方向を見ながら歩みます。それが真の「敬虔」の意味です。主の恵みのご支配、神の国に合わせるように生きている私たち自身が、この世にあって、神の国の「しるし」になるのです。