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神の愛に包まれた者

説教要旨(11月19日 CSとの合同礼拝)
マタイによる福音書 5:7-8
 

 幼な子たちが神様の祝福をいただきました。皆喜んでいますが、誰よりも喜んでおられるは神様です。イエス様は言われました。「憐れみ深い人々は、幸いである」「心の清い人々は、幸いである」。前回も言いましたが、古い文語訳では「幸福なるかな」で始まります。原文は最初に「幸いだ」と言っているのです。
 イエス様は誰を見て言われたのでしょうか。 (1-2)「弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた」。イエス様は、ご自分のもとに寄って来た人々をご覧になって、「幸いなるかな!」と言われました。イエス様が感動しているのです。
 「幸いなるかな!心の貧しい人々よ。幸いだ!悲しむ人々よ。あなたがたは慰められるのだ」。イエス様はこのような人々のために世に来られた。だから、喜んでおられます。「この人々のために私の命は献げられ、この人々は神の命に入れられる」。イエス様の喜びが、祝福の言葉となって現れ出ています。「なんと幸いなことか!」。
 イエス様は、ご自分に依り頼んでくる人々を喜んで祝福されます。(マルコ10:13-16)「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。『子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。』そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された」。
 「憐れみ深い人々」とは、何よりも神の憐れみを慕い求める人です。私たちは神の愛と憐れみと慈しみによらなければ、神の恵みのもとに生きることはできません。主に拠り頼むことを知らない人は、自分の知恵や力や誠実さ、自分の何かで生きようとし、それによって幸せも掴もうとします。
 「憐れみ深い人々」は、単に人に情け深く、情けをかける人ではありません。イエス様がご覧になっているのは、ただ神の憐れみに信頼する人です。神が憐れみ深いお方だと知った人は、「自分は情けも無く、憐れみにも欠ける人間だ。けれども、こんな者をも憐れんで、生かして、神は恵みを現そうとしておられる。それにお応えしたい」。「ありがたいなぁ」と応える。だからますます憐れみを味わい知って、ますます神の憐れみを受けます。
 「心の清い人々」。イエス様が覧になっておられるは、イエス様に心を寄せている人々です。神は、人が何をできたか、何をしたか、何を持っているかと、見える所をご覧にならず、その内側、心をご覧になっておられます。
 心の中を見られたらどうでしょうか。神は、私たちの心の中、一番深い所も全て知っておられます。「私がこんなことを思っているなんて、人に知られたら、もう生きていられない」。誰だってそんなものを持ってます。恥ずかしい、恐ろしい、と思うでしょう。
 しかし神は、「お前はそんなことを考えているのか。そんなヤツは要らない」などとは言われません。「お前のことはみんな分かっているよ。心配なことがあるだろう。恐がっているだろう。でも、心配するな、恐がるな。もう全部、赦した。だから私のもとに帰って来なさい。私の子として帰って来なさい。イエスと一緒に、さあ、来ていいんだよ」。
 詩編にダビデの有名な祈りの言葉があります。(51:12)「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」。私たちは、自分で自分の心を清くすることができません。どう頑張っても無理。神様にしていただけばいいんです。「神様、清い心をあなたが造ってくださいます」。神は私たちの内に新しい霊を吹き込んでくださいます。(ローマ8:14~15)「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」。イエス様と一緒に「アッバ、父よ」と神を呼ぶ人は、もう神を見ているのです。