主を恐れる悪霊
説教要旨(9月22日 朝礼拝)
マタイによる福音書 8:28-34
牧師 藤盛勇紀
湖の向こう側「ガダラ人の地方」、ユダヤ人から見ると全くの異教世界で、イエス様は悪霊に取りつかれた人たちと出会い、悪霊を追い出されました。悪霊どもは豚の中に入って湖になだれ込み、豚は死んでしまいました。しかし、悪霊が滅びてしまったわけではありません。それどころか、悪霊を追い出したイエスがこの地方から追い出されてしまう。何かスッキリしません。実際、悪霊は今日もなお働き続けています。ただ、悪霊はイエスを見るやいなや、イエスを神の子と認め、命乞いしました。初めから勝負はついています。
「悪霊」とは何でしょうか。悪魔や悪霊は何度も出てくるし、悪魔は「サタン」とも呼ばれます。悪魔は悪霊どもの頭。悪霊は悪魔の手下のようなもので、至る所で働いて多くの人間に影響を与えています。
悪霊につかれた人は、墓場から出てやって来たとあります。しかも「非常に凶暴で、だれもその辺りの道を通れないほどだった」と。誰もどうすることもできない恐ろしい状況ですが、こんな状態は、決して珍しくない人間の姿ではないか、ただ極端な形で表れているだけなのではないか、とも思えるのです。
マルコやルカを見ると、この悪霊は「レギオン」という名で、「大勢だから」と説明されています。なぜ「大勢」なのか。悪霊はたくさんいるということなのか。悪霊に取りつかれた人は「一人の自分」になれないのです。自分の内に何人もの人が住んでいる。ただ、私たちも状況に応じて自分を使い分けながら生きていますし、自分は本当は何をやりたいのか、何をすべきなのか、何をしている自分が本当の自分なのか分からない、ということもあります。それで延々と「自分探し」。
ガダラの人も、何かに駆り立てられ、出て行っても、結局人から逃げて行く。これも、忙しい現代人の姿のようにも思われます。悪霊は「汚れた霊」とも言われます。様々な精神でもあります。私たちはいかに多くの霊に影響され、時代の精神に巻き込まれているか。そうした精神によって私たちの魂は形成され、世を吹き渡る様々な霊に突き動かされている。
しかしそれは、本来の私たちの姿ではありません。神が人を造られた時、神は命の息・霊を人に吹き込み、人は「生きる者(魂)となった」と聖書は語ります。ところが、そこに「蛇」が介入してきます。蛇は悪魔。神と人との間に、「悪魔のささやき」が入り込みました。私たちを神から引き離そうとする霊、汚れたスピリットです。
悪魔も悪霊も真の神を知っています。イエスが神の子であることも、神の御心もご計画も知っていて、自分が滅ぼされる運命にあることも知っています。なのに、人間は違う。人に対する神の御心は、どこまでも愛し、ご自身の命を与えてしまうこと。
だから悪霊は人間に対して激しい妬みを燃やしています。人間はどう見ても神に愛されるような存在に見えない。体も衰えて死ぬ。しかも人は常に神に反逆し、罪の中にある。その罪を赦されたことを知ったはずのキリスト者でさえ、罪を犯さずに生きられない。そんな惨めな者なのに、命の霊を注がれ、神から生まれた者とされ、朽ちない体も与えられる。どうにも我慢ならない! だから、悪魔・悪霊は私たちを道連れにしたいのです。
「悪魔」という言葉は「中傷する者」。私たちの罪を指摘し、中傷します。私自身、信仰生活を振り返れば、恥ずかしい事ばかり。やるべきことをやらなかったことは数知れず、やらなくていいことをやったり言ったり。悪魔は、私を中傷するためのネタを山ほど持っています。しかし、正しい者のためではなく、罪人のために死なれたイエスが私の主なのです。この方は常に私と共にいて、言われるのです。「子よ、安心しなさい。恐れるな、ひるむな、思い煩うな。私が終わりまで一緒に行くから。だから、むしろ喜べ」。
この方と交わって生きる人生は楽しい。仮にあらゆる人から見捨てられるようなことがあったとしても、楽しいに決まっています。悪霊どもは、こんな私が羨まし過ぎるのです。悪魔のささやきに惑わされる世界の中でも、主は一人立ってくださいます。このお方は、すでに来ておられます。この方に信頼して、「主よ」と呼んでください。主は、主を呼び求める者と共に生きることを喜ばれます。