隠された神の国の秘密
説教要旨(4月6日 朝礼拝)
マタイによる福音書 13:24-43
牧師 藤盛勇紀

前回の「種を蒔く人のたとえ」から、「天の国」についての主のたとえ話が続いています。実はこの一連のたとえは、主がお許しになった者、主の弟子だけが悟ることができる「秘密」(秘義・奥義)です。ここで語られる「天の国(神の国)」は、聖霊降臨以後に生まれる教会のことでした。だから今は主の弟子たちにも理解できません。メシアがこの地上に来られた時には神の国は完成せず、二度目に来られる時に完成する。その中間の時代、聖霊による教会時代、これは旧約聖書には示されておらず、人となられた神の御子イエスによって初めて啓示されました。だからそれは秘義で、今は弟子たちにも分からないのです。イエス様の死によって世が贖われ、復活して命の霊となられ、昇天と聖霊降臨によって初めて生まれる「教会」は、聖霊を受けた弟子たちによって治められ、宣べ伝えられます。
イエス様はその時に備えて今、弟子たちに教会としての神の国を伝えておられるのです。そのことが分かっていると、次々と語られるたとえ話は、やがて弟子たち自身が経験する教会ことなのだと、改めて悟られます。
今日の「毒麦のたとえ」も主ご自身の解説があり、その間に「からし種」と「パン種」のたとえが挟まれます。これらも「天の国」のことだから、単純に良い話だと思ったら、むしろ「えっ?こんなのが天の国なのか?」という話です。「毒麦」のたとえは、教会は素晴らしい人ばかりが集まるお花畑などではないことを教えます。終わりの時まで、良い麦と毒麦が一緒に成長する。しかも、私たちにははっきり区別がつかない。だから教会は常に悩まされ続けます。その現実は、使徒たちが手紙に記している通りです。パウロは「私が去った後、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが分かっています。あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます」(使徒20:29-30)と言い、ペトロも、「今こそ神の家から裁きが始まる時」だと言います(1ペトロ4:17)。主が再臨する時まで、教会が完全になることも理想的な状態になることもありません。教会を荒らす偽使徒やずる賢い働き手も「キリストの使徒を装う」「だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装う」と言います。
イエスご自身も、「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である」と言われました。悪魔は、「悪魔です」という顔をして近づく愚か者ではありません。優しい羊や、立派な光の天使のような振る舞いで近づいて来ます。
「からし種」が成長する話も、「パン種」が全体を膨らませる話も同様です。初めは小さかった教会がいずれ大きく成長する、などという話なら、秘密でも奥義でもないでしょう。神の国・教会は、種蒔きから始まりますが、ユダヤ人にはそんなイメージも発想もありませんでした。種が成長して木になり、鳥が巣を作るとあります。明るい話に聞こえますが、「種を蒔く人のたとえ」では「鳥」は命の種・御言葉を食ってしまう悪魔です。同じ文脈の中で「鳥」の意味が変わることはありません。教会が大きく成長することは願わしいことですが、だからと言って単純に喜べるわけでもなく、小さいからこそ真理を担い得ることもあります。大きく成長すれば、悪しき者も成長するのです。大きくなったから良いという呑気な話ではありません。「パン種」のたとえも同じ。「パン種」は罪や偽りの象徴です。イエス様は、過越際の犠牲の小羊として屠られました。過越祭は除酵祭(種入れぬパンの祭)と結び付いています。祭りの期間、家からパン種を取り除かねばなりません。教会が成長すればパン種も大きく成長し、全体に悪影響を及ぼします。イエス様は、やがてそれを経験する弟子たちに予め教えておられるのです。
では、種蒔きから始まる神の国の望みはどこにあるのか? 教会を神の国として清めるのは私たち自身ではなく主です。たとえの理解を許すのも主。教会を生むもの主。さらに教会を完成まで導き続けるのも主ご自身です。だから私たちは常に主に聞き続け、蒔かれた命の種である御言葉を蒔き続け、私たちの内で命の種となられたキリストによって生かされる。そこに望を見出すのです。