光というやさしさに包まれる朝に向かって(創世記1章1-5節)
ジブリ映画「魔女の宅急便」の挿入歌に、歌手の松任谷由美さんが歌う「やさしさに包まれたなら」という曲があります。この曲の歌詞には「小さい頃は、神さまがいて、不思議に夢を叶えてくれた」という一節があります。幼い時には、いつも誰かに守られていた。そんな幼い日に感じていた「やさしさ」「温かさ」、そこからくる安心感をそっと思い起こさせてくれる歌詞です。
しかし大人になった今、「やさしさ」を見つけ出すことは大変なことです。誰かに守られていたあの安心感を、私たちが見つけ出すことは、難しい。私たちの生活には、たくさんの「不安」があるからです。ニュースを見ることが恐ろしくなります。次に何が起こるのだろう、と不安な思いに駆られています。地震、原発、進学、就職、恋愛、・・・心配なことを掲げればきりがない。先行きの不安は、私たちを暗闇の世界へと導いていくかのようです。
聖書の中に、天地創造について、記されているところがあります。聖書は、この世界の始まりを書き記すことによって、この世界の主(あるじ)を明らかにします。そして、この世界がなぜ存在しているのか、証言しようとします。
「初めに、神は天地を創造された。
地は混沌(こんとん)であって、闇が深淵(しんえん)の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」
この世界の初め、そこには混沌があったと記されています。秩序なき状態です。物事がはっきりとした形を伴っておらず、良し悪しの区別がない、そういう状態であったというのです。
世界の初めの、この混沌とした状態は、まるで今の私たちの日常を映しているかのようです。物事の形がはっきりしない。黒と白を見分けることは困難で、そのために多くのグレーゾーンが存在する。事の良し悪しの区別は、時代によって、立場によって、人によって、全く異なる。良いとされたものが、実は悪いものであった。そのようなことは、私たちの日常に溢れています。
聖書がこの世界の初めにあったとする混沌は、今、私たちの周りに存在している、そう言えるのではないでしょうか。
この状態から、神の創造の御業が始まったと、聖書は伝えています。この混沌とした状態の中に響いたのは、神さまの御声でした。「光あれ。」
主なる神さまが最初に造られたものは、「光」でありました。暗闇が支配する混沌の世界に、「光」がその存在を神によって呼び出されるのです。その存在が神さまによって望まれ、神さまの思いが言葉となって、響き渡りました。「光あれ」。こうして光が、存在するようになりました。暗闇が支配する混沌の世界に、「光」という神さまの秩序が存在するようになりました。光と闇を分けられたのです。さらに神さまは、光をご覧になって、「良かった」と言われました。光の存在を良しとされた。闇を「良し」とはされず、光を「良し」とされたのです。
そして、名付けられました。
「光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり朝があった。第一の日である」
光を昼、闇を夜と呼ばれました。
神さまは、闇の存在、混沌とした状況を完全に消しさることはなさいませんでした。しかし、放置したのでもありません。闇を夜と呼ばれて、御自身の支配下に置かれたのです。闇に、夜という名を与えて、御自身の支配下に置かれました。この後、神さまは天体をお造りになりますが、その天体の運行によって昼と夜を治めさせ、はっきりと光と闇を分けておられます。
さらに、「時」を伝える言葉は、「夕べがあり、朝があった」。「朝があり、夕べがあった」のではなくて、「夕べがあり、朝があった」のです。神さまは、「夕べ」から「朝」に向かうように、「時」を設定なさいました。「時」は、暗闇が覆う夜から、温かな光が包む朝に向かうのです。神さまが、そのように「時」を設定なさったと、聖書は証言します。
光という、やさしさが包み込む朝、希望の朝が、確実に来るのです。暗闇の先には、光が待っているのです。暗闇が支配する混沌とした、この世界に向かって、今、神さまの御声が響き渡ります。「光あれ」。
幼いころに感じていたあの安心感は、大人になった今も、実は変わらない。私たちの父である神が与えられる、「光」というやさしさに包みこまれる朝に向かって、私たちは今を生きているのですから。