メッセージ(2016年度)
春を目前にし、私たちは「備えの時期」を過ごしています。新しい環境、新しい生活、新しい場所、その備えの中にある私たちに、最も必要なものは「確信」です。
すなわち、この道は正しい道だという確信、必ず幸せな未来があるという確信、そして神が私を守ってくださり、いつも共にいてくださるという確信が、今最も私たちに必要なものなのです。
「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」
マタイによる福音書 1章 23節
(2017/3/1)
「初めのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き 砂漠に大河を流れさせる。」(イザヤ書 43章18~19節)
新しい年を迎えました。私たちの朽ちゆく生活の中にあって、神様は、このように時を定めて、思いを新たにし神の恵みを新しく仰ぐ時を与えてくださっています。ただ一日が過ぎ、一年が越されたのではないのです。ここには創造の神の御心があり、その御心に従って日々展開される神の御わざがあります。
けれども、注意しなければなりません。神様は御わざを「後ろ向き」に「堂々巡り」されるのではありません。「一直線上」を「前方(終末=キリストの再臨日)」に向かって行なわれます。
私たちが、いつまでも過去のことにこだわり、くよくよしている時であっても、神様の側では、私たちに対してすでに着々と「新しいこと」を始めていてくださる。新たな道を備えていてくださるのです。それゆえに、その御わざに目を注ぎ、その御わざにピタリとくっつくようにして、私たちも前方に身を伸ばしつつ歩むのです。
(2017/1/1)
神の御子イエス・キリストは、小さな村の暗く汚い馬小屋で、ひっそりと生まれました。それは、誰にも見せられない私たちの醜さ、暗さの中に来てくださったということなのかもしれません。
やがてイエスは、人々から見捨てられ、親しい弟子たちからも裏切られ、侮辱されながら、十字架につけられました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分で何をしているのかわからずにいるのです」と祈りながら。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。
(ヨハネによる福音書 3:16)
(2016/12/1)
緑の草花を見ていると、とても楽しい気持ちになります。しかし同時に不思議な気持にもなります。命はなぜこんなに美しく、精緻なのでしょうか。人智は未だ命を説明することが出来ません。しかし聖書は命について、豊かに語っています。
「耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに。」
(イザヤ書 55章3節)
(2016/9/1)
もし、自分がどこから来たのかが分からなければ、人生の意味が分からなくなる。
それが私たちではないでしょうか。
「初めに、神は天地を創造された」(創世記1章1節)。
「初めに、神は」。これが世界の始まりです。この世界は、初めに、天地があって、その中に神が現れたのではありません。「初めに、神」がおられた。そしてその神が「天地を創造された」。つまり、私たちは「神」という確固とした土台から生まれて来た。しかも、神は天地にただおられたのではなくて、「天地を創造された」、つまり働かれ愛の御業を為さったのです。
このお方から全てが始まります。ですから、「まず、このお方から聞こうよ。このお方に聞かなければ、人生のあらゆる問題は、到底、解決の糸口を見出し得ないよ」。聖書はそう私たちに語っています。
(2016/8/1)
【誰の言葉を聞くか】
アダムの妻エバは、「神のようになれる」との蛇(サタン)の誘惑の言葉を聞いて、それに応答したことから、彼らの死ぬべき運命が決まりました。
自分は誰の言葉に応えるのか、誰の言葉に同意するのか。それが、私たち自身の魂を形成し、自分がどんな者なのかを決めてしまいます。
「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ10:17)。
(2016/7/1)
「今なら、なんと! ○○○円!!」
あるテレビショッピングの声が聞こえて、思わずテレビの前へ。
うそっ!なんでこんなに安いの!? もう目も耳も心も、釘付けです。
心はワクワクしていますが、実は動揺し、不安なのです。なんだか、いま買わないと損してしまうかのように思わされているからです。ツイッターの一言、テレビのニュース、そんなちょっとした声に、私たちは心捕らわれ、行動さえコントロールされてしまいます。しかも、そんなことが日に何度あるでしょうか。
イエス様は言われました。「何を聞いているかに注意しなさい」(マルコ福音書 4:24)。
(2016/5/1)
「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」
(ローマの信徒への手紙8:14)
あれはいつの頃だっただろうか。
「パパー!」と言って、娘が胸に飛び込んできたのは。
「はたして私は父に喜ばれるだろうか」「何が父に相応しい態度だろうか」などど考え込む子どもがいるだろうか。
「アッバ、父よ」。神の子として神に近づこう。
(2016/4/1)
主イエスは言われました、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のま まである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。
もうすぐ多くの植物が芽吹く季節です。まだ種は地中に眠っていますが、その 硬い殻を破って柔らかな芽を出します。その芽が道路のアスファルトさえ破って、葉を広げているのを見たことがおありでしょう。
もし、一粒の種が自分自身を破ることを惜しんだとしたら、陽の光を浴びて生 きることはありません。種は、一度自分に死んだなら、陽の光を受けて生きるの です。
十字架にかかって死んだイエスは、三日目に復活されました。私たちもまた、 生きて死ぬものではなく、死んで生きるものとされるのです。
死を破られたイエス・キリストの復活を記念するのがイースター(復活祭)、 今年は3月27日がイースター礼拝です。
(2016/3/1)
神様の時間~闇から光へ~
「光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。」
(旧約聖書 創世記第1章5節)
朝が来て夕方が来る。日が暮れるように、一日が終わるものだと思っておられませんか。しかし神様は、そのように「時」をつくられていないのです。
神様の時間というのは、闇(夜)を貫いていかなければならないけれど、その空しい闇を打ち破り、光(朝)に向かっています。それが私たちの人生そのものなのです。神様は、私たちのあらゆる人生に、光を満たされるお方だからです。
ご一緒に、教会で、私たちに光を与えてくださる神をたずねてみませんか。
(2016/1/1)
ある都市のスラムで働く司祭が、なぜそのような仕事をしているのかと尋ねられた時に、次のように答えた。
「私がこうすることによって、神様についてのうわさが全く消えてしまわないためです」。
・・・・
われわれは好むと好まざるとにかかわららず、超越がうわさまで縮小された状況の中にいるのである。
(『天使のうわさ』(ピーター・バーガー著、荒井俊次訳)より
「クリスマスって、キリストの誕生日だってさ」
「キリストとイエスって、同じ人?」
こんな会話は珍しくありません。日本では、救い主の誕生はもはや「うわさ」にさえなっていないかも知れませんね。
2千年前の最初のクリスマスの時も、「あなたがたのために救い主がお生まれになった」との天使の告知を聞いて、「さあ、行こう」「見ようではないか」と言って、行って、見た人々だけが、喜びに満たされました。
天使のうわさが聞こえたように感じたら、教会でその知らせを聞いてみませんか。
(2015/12/1)
「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あ
なたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」
(ルカによる福音書22章32節)
「わたしはその人(=イエス様)を知らない」。取り返しのつかない裏切り行為、消したくなるような過去を持つ私たちですが、それにもかかわらず、イエス様ご自身は、私たちを決して「知らない」と見切ることはなさいません。それだけでなく、とりなしの祈りによって、私たちを立ち上がらせてくださいます。
私たちの人生は、どんな時も、自分自身の手の内にあるのではなくて、「しかし、わたしは」とご自身を名乗り、迫って来られるイエス様の御手の内に置かれています。
教会は、そんなイエス様と出会える場所です。すべての人にそのような出会いをと願っています。
(2015/11/1)
あなたはだれ?
それがわかったら苦労はないわ!
・・・・
ソフィーはもう一度、鏡の女の子を見た。
「ふうっ、そろそろ生物の宿題をしようかな」
ソフィーは、なんだが自分に言い訳をするように、声に出して言った。
(『ソフィーの世界』(ヨースタイン・ゴルデル著、 池田香代子訳)より
「あなたは誰?」「私はだれ?」
自分で望んで生まれてきたわけでなく、なぜ生きなければならないのかも分かっているわけでなく、かと言って死ななければならない理由もなく、ただ、生きたいとは思っている。
でも、今日もいろいろやらなければいけない課題や宿題があるし、めんどうな仕事やつき合いもある。今日が過ぎ、明日も過ぎ、やがて何年も過ぎて・・・。
聖書は、神が意志と意図をもって私たちを造られたこととを告げています。ご一緒に、造り主なる神をたずねて
みませんか。
(2015/10/1)
「神からの知恵」
学校のテストで、同じ問題に出会った経験は誰にもあるでしょう。もう同じ間違いはしたくないと思い、正しい(一つの)答えを頭にねじ込みます。
人生でも、同じ問題や課題に出会うことがあります。しかし答えは一つではありません。「あちらへ」「こちらへ」と、心の内に複数の声が響きます。ここで、「知恵」が求められます。しかしどれが本当の道なのか。神は、すでにあなたに語りかけています。
(2015/5/1)
「信じない者ではなく、信じる者に」
今年のイースター(復活祭)は、4月5日です。
十字架につけられた主イエスが三日目に復活されたことを記念する日ですが、復活の主イエスを信じることは、人間の力や人間の理性には不可能なことでしょう。
しかし、復活の主を信じるとき、この世界も自分自身も、まったく新しいものとなります。この、不可能が起こるところが教会です。
(2015/4/1)