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説教要旨(3月17日 朝礼拝より)
ローマの信徒への手紙 2:1-16
牧師 藤盛勇紀

 「すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない」(1)。イエス様も言われました、「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない」(ルカ6:37)。
 ここで問題とされている裁きは、人間が決定してしまう問題です。人間の批評や批判は決して最終決定にはなり得ないし、人間の批判は必ず誤りを含みます。「裁き」は神の業であり、人間の業ではありません。自分が裁き主となる時、あるいは誰かを自分の裁き主のように思い込む時、神が主であることを忘れているのです。
 「真理ではなく不義に従う者」(8)とあります。1:18に、不義に対して神は怒りを現されるとありました。神の怒りは愛と表裏一体。神は愛によって怒りを現されます。それは福音です。神の深い慈しみと愛と赦しが示されている。なのに人間はそれを認めず、自分勝手に人のことをも自分のことをも決めてしまう。その「独り決め」、それが人間の不義、人間の転倒した姿です。
 「そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう」(16)。福音に示されたキリストの恵みは、終わりの裁きの日、終末に希望を持たせます。
 いわゆる「最後の審判」は、一般的には恐ろしく暗いイメージがありますが、それは違います。終わりの裁きの時は、全てが明らかにされる時、全ての謎や不条理の秘密が開かれ、全ての問いに答が与えられ、全てが慰められ、全てが新しくされ、明るい希望が満ちる時です。だから私たちは、「主の再び来たり給うを待ち望む」と告白して、主の裁きの時を心待ちにするのです。
 ところが、「人間の裁き」がそれを暗くしてしまうのです。慈しみと憐れみに満ちた主なる神に従って生きようとさせず、人間の思いや人の言葉や知恵による決定に従わせてしまい、人の判断や決定が「最終決定」だと思い込んでしまう。
 しかし「神の裁き」は全てを明らかにします。「そうだったのか」と分かる。自分の人生で、世の歴史で、「なぜこんなことになるうのか」と叫ぶしかなかった不条理、ただ耐えるしかなかった理不尽。それら全てに光が照らされ、答えが与えられるのです。
 太平洋戦争時、アメリカの日系人は強制収容所へ入れられました。戦後カリフォルニアのある収容所から解放された日系人の大群衆の集合写真を見ると、先頭に"Forward with Christ."(キリストと共に進もう)という横断幕が掲げられています。その収容所に日系人の伝道者がいて、皆クリスチャンになったというのです。
 日系人というだけで理不尽な扱いをされ、命の保証もない。しかし、自ら十字架を選び取られたイエス・キリストは、私たちの罪を全て負われ、今生きてこの収容所の中で私たちを経験しておられ、「前に答えがあるから進もう」と言われる。だからキリストと共に前に進もう。
 一方、日本では集団自決という悲惨がありました。「自決」とは、まさに人間が自らに下す最終決定。それに対して、「そうではない」と、神のからの怒りが現される。それはまさに「福音」なのです。
 「人を裁かない」ということは、自分に対しても最終決定を下さないことです。人と関わって生きる以上、判断や評価や批判なしには生きられません。しかし、人の裁きを「最終決定」としない。「誰それから裁かれた」と言うのも、自分の勝手な思い込み。他人を自分の主にしてしまう自決です。
 私たちの裁きは、人からではなく神から来ます。神は、私たちの罪のために死なれたキリストを通して裁かれます。だから人から何を言われようと、いつでもどこでも希望を持てるのです。