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今週の説教

朽ちない愛の恵み

説教要旨(1月6日 朝礼拝より)
エフェソの信徒への手紙 6:23-24
牧師 藤盛勇紀

 このエフェソの信徒への手紙は祝福の言葉で締めくくられます。パウロはまず、「平和(平安)があるように」と言いますが、ここでパウロが言う平和は、苦しみがないとか、困難がない、戦いがない、抑圧がないといったことではありません。
 ローマ書5:1~3を思い起こします。「わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」。
 よくも生きていると思われる苦難をパウロは経験していますが、苦難を「誇りとする(喜んでいる)」と言います。やせ我慢でも、強がりでもありません。あるいは、「艱難、汝を玉にす」ということでもありません。苦難を味わい、恥を受ければ受けるほど、そこで経験したことは、自分が磨かれていくというわけでなく、これでもかと自分の弱さを思い知らされたのです。しかし、どんな状況の中でも全く変わらずに、自分を上から支えて下さっているお方を、経験していったのです。
 自分は本当に小さな者。運命に翻弄され人には嘲られる。しかも自分はなんと惨めな罪人かということを思い知らされていく。自分の力で人生を切り拓いているつもりで神に背を向けている、そんな自分のために、イエス様は死んでくださった。
 《私は、このお方によって、神の前に義とされ、神との間に平和、平安を得ている。何ということだろう。この私は神に赦されている。神と和らいでいる。愛されている。どんなことがあっても私は神の恵みのご支配の中から退けられない!》
 彼の人生で、苦難は止むことはなかった、失望させられることもあった、しかし「希望はわたしたちを欺くことがない(失望に終わらない)」。なぜなら「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」。
 パウロは運命に翻弄され、揉まれても、聖霊によって神の愛に包まれていました。「喜んでいる」とは、単に何か良い事が起こった(happen)時の"happiness"とは違います。パウロが喜んでいるのは、朽ちることなく、変わることのない愛と恵みが注がれている「祝福」の事実ゆえです。常に祝福をもって自分を包んでくださるお方を、喜んでいるのです。だから「苦難をも誇りとします」と言うのです。勝ち誇るような喜びです。「誇る者は、主を誇れ!」。
 「平和、平安」は、このお方との関係なのです。父なる神と主イエスから来る。信仰によって知る主の愛、その朽ちることのない愛が、常に私たちを包んでいる。それが祝福です。
 詩編の言葉は「幸いだ」で始まります。詩編には様々な歌があり、祈りがあり、賛美があり、苦しみの訴えがあり、叫びがあります。山あり谷ありの人生そのものです。しかし、「幸いだ」という主の祝福が、人生の全体を覆っているのです。
 イエス様も山上の説教で言われました。「幸いだ!」。「心の貧しい人々は、幸いである…。悲しむ人々は、幸いである…。義のために迫害される人々は、幸いである」。
どんな状況にあっても、気づけるのです。
 もし、あなたが苦難の中にあるなら、何かに悲しんでいるなら、「幸いだ!」と主は言われます。慰めを知る時となり、主の御業を知る時となるからです。だからパウロは、いま獄中から、人々を祝福して締めくくることができるのです。