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今週の説教

父と家

説教要旨(11月12日 朝礼拝より)
ルカによる福音書 15:11-32
伝道師 山下瑞音

 今日読んでいただいた旧約聖書の聖書個所は、経験を積まないと味わいが分からない個所ではないかと私は思います。私が初めて聖書を読んだころ、私はこの個所を悲しいお話として読みました。なぜなら当時、ここで描かれているこのヤコブの姿に何か痛々しいものを感じたからです。愛する息子と生き別れ、何年も何年もその痛みに耐えて、老体に鞭を打つようにしてエジプトまで行こうとするヤコブの最期は、悲惨なものだと私は思ったのです。
 しかし今、大人になって再びこの話を読んでみて私は思います。この話は決して悲惨な話ではありません。長い人生を歩みぬき力の限り生きた男が、最後に見出した希望の物語。最後まで信仰にすがり続けたヤコブに、神様が報いてくださったという喜びのお話、それがこの物語です。
 このヤコブの気持ちは、人生経験を積んではじめて理解することができることでしょう。なぜなら、私たちもヤコブと同じように、「どうしてももう一度会いたい」と思う経験を私たちはこの人生の中で重ねてゆくからです。そしてその相手は、何も人に限ったものではありません。私たちは故郷に対して、ヤコブと同じ思いを抱くことがあります。
 人間は誰でも帰る場所のない存在なのだ、と言うことが出来るのかもしれません。生まれた場所を離れて生き続けてゆく、それが私たちの生き方なのです。しかし聖書には、私たちには帰る場所があるのだということが力強く書かれているのです。
 この個所は、「放蕩息子のたとえ」というタイトルで有名な個所です。しかしこの話はむしろ、「放蕩息子の父とその家のたとえ話」なのではないでしょうか。放蕩息子は父親に財産を分けてもらったあと、酸いも甘いもなめ尽くすような経験をしています。その結果、彼はすっかり変わってしまいました。彼自身、そのことに気づいていました。この息子は父に雇い人にして欲しいと言おうと決意します。彼はもうかつてのように家に帰ることは出来ない、ということに気づいていたのです。実の父とも以前のような関係になることは出来ないということも、分かっていました。しかし、かれが故郷に戻っていったとき、彼が見たのは昔と何も変わらない、生まれ育った家の姿でした。そしてそこには、放蕩息子の予想とは違って、昔と変わらずに彼を愛し続けている父の姿があったのです。
 私たちはこのお話を読みこの父のふるまいを見るとき、この父がいたからこそ、放蕩息子の故郷は昔のままだったのだということに気づきます。この父がいなければ、たとえ建物や風景が昔のままだったとしても、そこは放蕩息子の生まれ育った家ではないのです。しかし、この父はどこにも行かないで、いつかまた帰ってくると信じて、待っていてくれたのでした。
 私たちも放蕩息子のように、後悔も苦労も経験してきました。そして私たちはすっかり変わってしまいました。ですから私たちは時々、本当にこんな自分でも神様の御許に行くことが出来るのかと、不安になることもあります。しかし、たとえ私たちがどんな風に変わってしまっていたとしても、私たちがどんな人生を歩んできたとしても、私たちの父なる神は、私たちの故郷で私たちを待ち続けてくださっているのです。神様は、そんな人たちも遠くから見つけ駆け寄ってくださいます。そして私たちは、今まさに神様に強く抱きしめられています。私たちには帰るところがあります。そしてそこには神様が私たちを待っておられます。ですから私たちはあの天の故郷が用意されていることに感謝し、そして再び故郷に帰る日を待ち望むことが出来るのです。