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追い立てる神

説教要旨(1月25日 朝礼拝より)
列王記上 19:1-8
牧師 小宮一文

 イスラエルの国が二つに分裂し、捕囚によって滅びるまでのあいだの期間に活動したのがエリヤという預言者です。イスラエルの国でアハブという王が自分にとって都合の良い政治を進めるため、十戒の神を捨てて、バアルという農耕の神と、それに仕える預言者や祭司たちを取り入れました。王と祭司が人を支配する力を持ち、そのことによって国の状況が悪くなっていく中で、エリヤは王を批判します。人の支配を進めようとする力を取り除くため、エリヤはバアルの預言者を殺すということをします。しかしそのことによって王からさらなる恨みを買い、命を狙われて、エリヤは逃げます。
 バアルの預言者との対決を通して神の正義が証明されたはずなのに、エリヤを襲ったのは恐れでした。エリヤの心身は恐れによって衰弱しました。そして立ち上がれなくなりました。そして「もう十分です」と言いました。
 そこで神さまがエリヤにどう接したのかということが語られています。神さまが最初にしたことはエリヤを寝かせることでした。エリヤの心は恐れで過剰な回転をしています。そういうエリヤを神さまはまず寝かせました。次に神さまがしたことはパン菓子と水をエリヤに持ってきて、食事をとらせることでした。そして「起きて食べよ」と語りかけます。エリヤがこのまま命が絶えることを神さまは望んでいないからです。
 私は神さまがその次に言った言葉に注目します。「この旅は長く、あなたには耐え難いからだ」と言いました。これは「さあ元気を出して耐えていこうではないか」という言葉でしょうか。違うと思います。神さまは「この旅はあなたに耐えられない」と言いました。「耐えよう」ではありません。「あなたは耐えられない」。
 エリヤはおそらく従者やいろんな人から何度も「耐えましょう」「がんばれ」「耐えろ」と言われたと思います。でも神さまだけだったのだと思います。「あなたは耐えられない」と言ってくれたのは。エリヤはそこで何かを降ろしたのだと思います。
 「耐えろ」はいつでも人を励まし、人を立たせる言葉でしょうか。私は子どもを持ったことがないので分かりませんが、もし自分の子どもが毎朝吐きながら学校に行くのを嫌がっているとき、「何でもいいから食べて耐えろ」と言う自信がありません。でも「あなたはもうその場所に耐えられない。だから逃げろ」ということだったら言える気がします。
 逃げるというのは一般的に落伍・失格とみなされます。しかし坂口安吾という小説家は「耐えて、吐いて、死ぬ」ことが美徳であるなど嘘だと言いました。生まれながらに耐えて、吐いて、死ぬ人生を送りたい人なんていない。
 人を隷従させようとする力が「逃げるのは落伍者」という文化をつくりあげます。それに対し神さまは「逃げろ」と言います。エリヤに逃げずに立ち向かわせることをしません。むしろそれをさせないための言葉です。「あなたにこの旅は耐えることはできない」。
 「耐えて死ぬより、逃げて生きよ」と神さまは言っています。「あなたにはこの旅は耐えられない」と神さまが言うのはそのことをエリヤに知らせるためです。
 最近、アメリカの人が書いた『エルマーのぼうけん』という本を読みました。そして非常に深い感銘を受けました。ここにもエリヤに現れた神さまが働いているのを感じました。エルマーという浮浪児が逃げた先で商売をし、生活するという話です。でもその商売もしばらくするとやめて、また逃げて、別の商売を始めて、というような生活をします。ひとつの場所に留まって日々嘔吐しながら何かに耐えるということをしません。反対に、逃げた先々で商売のイノベーションを起こします。まるでユダヤ人みたいです。
 人を隷従させようとする力が「逃げるのは落伍者」だと言います。そして逃げずに限界まで耐えて命を絶つ子どもがいます。神さまは「逃げろ」と言います。神さまはロトと別れたアブラハムに最初に「目をあげてごらん」と言いました。「そこには大地の砂粒のように多くの人がいる。あなたはそこを縦横に歩き回るがよい」と。