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今週の説教

希望は生まれる

説教要旨(7月7日 朝礼拝より)
ローマの信徒への手紙 5:1-5
牧師 藤盛勇紀

 1節に、「このように、わたしたちは信仰によって義とされた」とあります。「義」とは、まずは「神の義(正しさ)」、神が神であられることです。しかし神は、私たち人間と無関係に独り超然と義なる存在なのではありません。「義」とは関係のことでもあります。「不義」は関係を破り、捨てること、あるいは歪みです。それで、神に対して不義な人間から見ると、神の愛は「怒り」の面しか見えなくなるのです(1:18)。
 しかし、「わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって、神との間に平和を得ている」。「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(5)。神は、私たちに愛を注ぐことなしに「義」であろうとはなさいません。神は私たちを求め、愛によって私たちの「神となってくださる」方です。
 神学者ユンゲルは、神が「存在する」とは、神が神と「なる」ことだと言います。神は永遠の彼方にあるのではなく、この世に到来し、私たちに近づき、私たちの神となろうとされる方です。「私があなたを造り、あなたを求め続けてきた。私が、あなたの神なのだ」と名乗り出、乗り出して来られ、私たちと共にあろうとしてくださる。だから「神は愛」なのです。
 神はイエス・キリストにおいて、その全能・全力をもって到来されました。このキリストのお陰で、すなわち私たちのために注ぎ出されたキリストの血、命によって、不義な私たちは赦され、義とされ、贖い取られて、神の子とされました。
 そのような「今の恵み」に、「導き入れられている」と言うのです。「今の恵み」を直訳的には、「私たちが今立っている恵み」。この恵みの場、それはキリストに結ばれて神との間に「平和」を得ている場です。
 「平和(平安)」はヘブライ語で「シャローム」。ユダヤ人(イスラエル)の日常の挨拶の言葉ですが、彼らが求め続けたものです。挨拶になるほどに平和は彼らの希望でした。現代のイスラエルは、あの土地に立って生きることに平和と希望を見出そうとしています。しかし、シャロームの場はこの地上のどこかではありません。「キリストが私たちの平和」(エフェソ2:14)なのです。いわゆる聖地と言われる土地に立つことでなく、神が私たちのために注がれた「恵みの内に立っている」、そこが「平和」なのです。
 そして、そこにこそ「希望」があります。ここで聖書が語る「希望」は、人間なら誰でも自然に抱く希望とは違います。神の愛と恵み無しに抱ける希望ではありません。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」(3,4)とあります。希望に生きことは、安らかで平坦な場に生きていることとは違います。苦難から忍耐、忍耐から練達、そして練達から希望へと辿る「道」があるのです。希望が見えない所でも、それにもかかわらず、そこに神が共におられることを知り、その恵みを味わいながら、人間が抱く絶望に逆らって、希望に熟練していくのです。
 《キリストによって神との間に平和を得ている》恵みに立つ者は、「苦難をも誇りとします」と言い得ます。なぜでしょうか? それは、神の愛が注がれているからです。今日も神は私を子として扱ってくださり、神の命の交わりの平安の中に入れてくださる。そのようにして神は今、私の神、あなたの神となっておられるではないですか、というのです。この事実は、人は自力で知ることはできません。「聖霊によって」知らされるのです。神ご自身が触れてくださる、愛と憐れみの出来事だからです。神が私たちの神となってくださるように、私たちも神の恵みの中で、常に新しく神の御前に恵まれた人間と「なる」のです。そこに、私たち人間の存在の意味があり、希望を誇りとする喜ばしい生き方があります。