ホーム | 説教

主のもとに生きる

説教要旨(2月22日 主日礼拝より)
ヨハネによる福音書 4:43-54
牧師 星野江理香

 ガリラヤのカナにおいでになった主イエスを訪ねて、同じガリラヤのカファルナウムから、瀕死の病気の子どもの父親である王の役人であった人がやって来て、一緒に来て子どもを癒してほしいと願い求めました。しかし、直前の箇所のサマリアの女性と主イエスの対話に比べて、この父親と主の対話は微妙です。父親の気持ちは私たちも察して余りあるところですし、私たちを愛し抜いて、十字架の上で私たちの罪の贖いの羊となられるこの方に、愛する者を奪われようとしている者の気持ちがわからないはずはありません。しかし主イエスは、今すぐ行くのでも断るのでもなく、この人に「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」とお答えになりました。これは、第2章で、主の癒しの奇蹟という「しるし」を見て「イエスの名を信じた」エルサレムの人々の不実な心根のゆえに、彼らを「信用されなかった」という主のみ心を私たちに思い出させます。
 私たち人間が陥りがちな「しるし」による信仰は、利益や条件を第一とする「打算」の信仰…いや信仰とすら呼べないものです。ご利益が見えなくなったり失われたりしようものなら、たちまち掌を返して見捨てたり、無関心になったりする薄っぺらな信頼です。けれども、主が、神様が求めておられるのは、ほんとうの愛と信頼ですから、ここにあるのは神様の一方通行の愛なのです。そして今も、神様は、主イエスは、私たちをご自分の愛のうちに取り戻すべく招き続け、呼びかけ続けてくださっているのです。
 この時も、この父親が主イエスご自身のことなど爪の先ほども気にかけていないこと、ご利益としての子どもの癒しのことしか頭にないのを主はよくご存じでした。そして本来なら、この主イエスの言葉からサマリアの井戸端で出会った女性とのような対話が始まったはずでしたが、神と人間との関係修復を切望される主イエスの言葉は、この時、ただこの父親の頭の上を通り過ぎていったのでした。
 しかしながら、ナインのやもめのために腸がちぎれるほどの憐れみを覚えられたり、死後4日も経ったベタニアのラザロを蘇生させてくださる主イエスは、ご自分の思いが満たされないからと相手を無碍にする方ではありません。この世界で唯お一人の罪なき人間でおありになるこの方は、「隣人を自分のように愛する」ということを完全に行い得る唯一人の御方です。同時に、この御方は、御父と共にこの世界を創造された、真のみ言でおありになる方でもあります。ですから、この時、憐れみに溢れて、「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と告げられたのでした。それは、私たちの命の深いところに働きかけて、力強い響きで私たちに迫り来るみ言葉です。そしてまさにこの時この父親の息子は癒され、「生きる」ものとなったのです。
 また、命を統べ治められる主の言葉には、この父親の心に信仰を呼び覚ます力もありました。結果、父親はそれ以上主イエスをカファルナウムに連れて行こうとせず、主の言葉を信じて帰るのです。そのようにして主イエスは、御父と共に命の主であるご自分をこの父親と家族に啓示されたのでした。
 人の生死は、神さまのみ手のうちにあります。ふだん自分の力を頼みとしプライドをもって「王の役人」として働くこの父親もそれを思い知ったことでしょう。そして、愛する者の癒しの奇蹟を通してはじめて、自分たちの命の主である御方がどなたなのかを知ったのです。また、もちろん、この時、子どもは単に蘇生したのであって、それはご再臨の時の「復活」とは異なります。主と結ばれ、永遠そのものでおありになる御方の御手のうちに置かれる時、私たちは永遠にこの方の命に生きる者となるのです。そうなれば、私たちは、たとえば突然の不慮の死にあおうと徐々に体が蝕まれゆく病に冒されることがあろうと、主の十字架のみわざによって罪と死から既に自由にされた者として、「死」の恐怖や不安から自由にされているのです。ですから、人の不安を利用する他者に支配されたり惑わされたりすることなく、主のもとにあって、この世での生を活き活きと全うするのです。