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今週の説教

決して離さぬ愛

説教要旨(1月19日 朝礼拝より)
ローマの信徒への手紙 8:35-39
牧師 藤盛勇紀

 「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう」と語るパウロは、ここで詩編44編の言葉を引用します。「わたしたちは、あなたのために、一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」。これはむしろ神から離される恐れを語っています。だから詩人はこの後で叫ぶのです、「主よ、なぜ眠っておられるのか。目覚めてください。なぜ御顔を隠しておられるのか。今、立ち上がってください」。
 十字架にかけられたイエスに向かって人々は嘲りました。「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば信じてやろう」。もし、ここで神が天の軍勢を率いて現れたら、誰もが神を恐れ震え上がったでしょう。なのに主は、「ここ」という時に奇跡を行わないのです。人々は、「金の切れ目が縁の切れ目」「奇跡の切れ目が信仰の切れ目」とばかりイエス様を捨てます。しかし、私たちの救い・命は、その先、その上にあるのです。
 パウロは言います。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か」。誰だって、艱難や苦難からは逃れたい。苦難が迫れば、詩編の詩人のように、「主よ、なぜ、眠っておられるのか。なぜ、御顔を隠しておられるのですか」と叫ぶ。神はいないのか!
 ところがパウロは、そんな艱難など決して神と別れる危険などにはならない、というのです。神が離れている、神から離されていると思うような所でも、実はガッチリ捕らえられていて、決して離されることなどない!と確信しているのです。私たちを決して離し給わない神の愛、キリストの愛が、いま数々の艱難、苦難と危険の中にあるこの私に、すでに満ち満ちている!と。
 詩編の詩人が嘆くように、私も死にさらされ、神はいないかのように見られている、奇跡も御利益もない。「お前の神は眠っているのか」と嘲られ罵られる。しかし、そんなことどうでもいい! そんなことで神と引き離されることなどにはならない! 神のいない危険地帯などない! それどころか、今こんな所でも主と結ばれている! 私は主にあって大丈夫なのだと。
 「先」に行っているのです。パウロは、「私たちは、あなたのために」と言います。「あなたのために」と言う「あなた」がおられる。「主よ、あなたのために」、私は一日中死にさらされています。屠られる羊のように見られています。苦しみを味わい、人から馬鹿にされ、蔑まれたりということもある。「でも主よ、あなたのために、いま私はこうなのです」と言える。この信頼、命の交わりがあとは、何と幸いなことでしょうか。キリストに結ばれて、今や私は「あなた」を知っている。「私たちを愛して止まない主よ、私はあなたのために」。こう言える時、私たちは主を愛しているのです。
 このお方と結ばれている命の関係こそ、あらゆるものに勝る力ではないでしょうか。この真実な命のつながりを、この世のどんなものも断ち切ることはできません! 艱難? 苦しみ? 危険や剣? もう何があっても、何が無くても、キリストの愛から私たちを引き離すことはできません。
 キリストに結ばれた者は知ったのです。 私は主と《一つの命》とされているから、離すのは無理。主の命の霊は《永遠に私たちと一緒》だからです。だから私は、自分を愛する時、主を愛している。自分を愛するようにこの方を愛するのです。この命から、いったい誰が、いったい何が、私たちを引き離せるというのですか。
 「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」