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今週の説教

キリストが形づくられる

説教要旨(12月3日 朝礼拝より)
ガラテヤの信徒への手紙 4:12-20
牧師 藤盛勇紀

 ガラテヤの信徒への手紙を読んでいると、何度もはっとさせられる言葉に出くわします。今日の箇所でも、パウロの感情が直に表れている言葉が最後に出てきました。「あなたがたのことで途方に暮れている」と。
 「知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました」と言うように、パウロは持病がきっかけでこの地に留まって伝道したようです。その時、「わたし(パウロ)の身には、あたたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに」、ガラテヤの人たちは「さげすんだり、忌み嫌ったり」しなかった。それどころか「かえって、神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれ」たというのです。
 その時のことを思いながらパウロは、「あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか」と嘆きます。キリストによって罪赦され、神の子とされて生きる者の幸いをガラテヤの人たちも味わった。そこにキリストの教会が生まれた。キリストの恵みによって生きる人々の群れが生まれた。ところが、ガラテヤの信徒たちはまるでそのことを忘れてしまったかのように見える。それはいったいなぜなのか。
 17節に唐突に「あの者たちが」とあります。「あなたがたに対して熱心になる」人たちで、熱心によく働いてくれた人たちです。信仰的な指導をしたり、いろいろ世話をしてくれたり、熱心に働いてガラテヤの信徒たちの心をつかんでいたのでしょう。
 信仰生活は、思いがけない仕方で足下をすくわれることがあります。人間的な熱意や善意がかえって人を大事なことから引き離す誘惑になり、神の恵みによって与えられた救いが、何か人間の熱心さとか人間の善意に取って代わってしまう。「“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか」(3:3)と言った危機です。
 この手紙には「救い」という言葉が出てきませんが、パウロは一から出直すかのように、キリストによる救いを説きます。「もう一度産もうと苦しんでいる」と言います。それは、「キリストがあなたがたの内に形づくられるまで」だと。
 パウロがキリストの形を作るわけではありません。キリストご自身が、信じる者たちのうちにご自身の形を取り、ご自分の姿を私たちの内に宿らせ、私たちを通してご自分を現してくださるということです。
 「形」で思い起こすのは、フィリピの信徒への手紙2:6以下の、「キリスト賛歌」と呼ばれ有名な御言葉です。そこで「神の身分」と訳されている言葉は、「形」と同じ言葉です。「神のかたち」であられる主イエスが「人間の姿」となられたという「姿」も「形」です。神のかたちであるお方が、人間のかたちとなられた。それが主イエスで、それが歴史の中で起こったクリスマスです。
 聖書の最初に語られているように、人は神のかたちに造られました。呼べば応えるような生きた関係があることです。親があって子であるように、妻があって夫であり得るように、互いに認め合い、呼び合い、愛を写す、人格的な関係です。
 ところが、人間は神に背を向けてその形を破壊してしまいました。人間は創造主からの離反によって、自分が何なのかが分からなくなってしまいました。自分を失い、真の命を失ったのです。その人間を神のかたちとして取り戻すために、神の独り子が、人間のかたちをとって生まれて下さいました。そして、ご自分の命を献げて、もう一度、私たちを神のかたちと命へと招いて下さっています。
 私たちはこのキリストに結ばれ、キリストが私たちの内に宿って下さって、命と愛の交わりが蘇らされるのです。そこに、神のかたちの回復があり、人間の本当の命があるのです。