ホーム | 説教

今週の説教

神の国を前方に見て

説教要旨(11月4日 逝去者記念礼拝より)
ルカによる福音書 9:57-62
牧師 藤盛勇紀

 主を信じて従う生き方を巡って、3人の人が出てきます。立派な決意を言い表す人。父親を亡くしたばかりの人、そして家庭に何らかの責任がある人。最初の人はいかにも積極的な人です。決心して、「どこへでも従って参ります」と言う。ところが、イエス様のお言葉はそっけないものです。主を信じて従う生活は、単に自分の決心や熱い思い、強い決意などでは始まりません。私たちの決心や決断などをはるかに超えたものによります。それは《主の招き》です。
 イエス様は「別の人」に、「わたしに従いなさい」と言われました。ところが、この招きを受けた人は従う決心ができません。「まず、父を葬りに行かせてください」。これにイエス様は冷たく答えます。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」。普通のユダヤ人にはあり得ない考え方ですし、親を亡くしたばかりなら、まずこの事実を受け止めて、心の整理をつける時間だって欲しい、と思うのが当然です。
 イエス様も当然よく分かっていながら、その葬りさえ中断して「私に従え」と言われるのです。そしてこの人には、「行って、神の国を言い広めなさい」と、使命をお与えになります。イエス様は、家族を葬るにしても単に悲しく暗い業としてでなく、「神の国が来ている」ことを告げるものとせよ、その祝福と恵みの中で、祝福を現すものとせよ、ということでしょう。私たち教会が行う葬儀も「祝福」で終わります。
 さて、主に招かれたもう一人の人は家族がいるので、「まず家族にいとまごいを」。誰でもこうなります。結婚したら「まず妻のことが」、子供が生まれたら「まず、子供のことがあるので」、子供が手を離れたら、「孫のことがあって」と。家庭のことだけではありません。「まず、仕事が」。リタイアしたら「まず、やりたかったことがあったので」と、延々と続きます。
 「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」。神の国、神の恵みのご支配はすでに始まっている。神の国は来ている。その事実をイエス様はご自身の存在そものをもって証ししておられるのです。私たちの主は今来ておられる! 私たちは、なぜ、何のために、どこに向かって生きるのか。それは、私たちの真の【主】によって示され、満たされるのです。
 「どこに向かって生きるのか分からない」と嘆くのは、「主」を見失っているからです。あなたの主は誰ですか。誰があなたに命を与えたのですか。誰があなたの命を取り上げるのですか。いま、あなたに命を与えた主が、命と恵みをもたらすお方として、他でもないなたのために働いておられます。神の国の働きはすでに始まっている、すでに来ているのです。だから、後ろを振り返るのでなく、すでにイエスにおいて到来している神の国を、あなた自身がその祝福と恵みの内を生きて世に現すのです。「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」(ローマ14:8)。
 詩編の最初の言葉は「幸いだ」。その祝福が、人生の山も谷も、喜ぶ時も悲しい時も、全てを覆っています。イエス様も、貧しい者は幸いだ、悲しむ者は幸いだ、迫害される人々は幸いだと言われました。なのに人間はその祝福を見失い、行方不明の遭難者になっている。レスキュー隊が遭難者を見つけて最初に言う言葉は「もう丈夫だ」。そして「私について来なさい」です。
 人生に遭難した私たちに、「私を信じる者は、死んでも生きる」と言われる主が、「私に従ってこい」と言われます。この招きを聞いているなら、あなたは幸いです。もう後ろを振り返らなくてよいからです。約束された神の国とその完成が、主と共に私たちの前にあるから、この方を見つめて行けばよいのです。