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やがて、愛になる

説教要旨(4月26日 朝礼拝より)
ルカによる福音書 7:36-50
牧師 星野江理香

 「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」(47節)。
 この心揺さぶられる物語で注目したいのは、「罪深い女」と呼ばれる女性の愛のわざと神さまの罪の赦しの順序、そして私たち人間と神さまの関係についてです。
 この物語は「ルカによる福音書」にのみにあって、似ているところのある話はあっても他の福音書に同じ話はありません。主要登場人物は、主イエスと「罪深い女」と呼ばれる匿名の女性、そして主イエスを食事に招いたファリサイ派のシモンの三人です。そのシモンに求められて彼の家で食事の席に主イエスがついていた時、「罪深い女」が「香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄」り、寝ている裸足の足元に低い姿勢で接近したというのですから、やや艶めかしい状況を想像させるものではあったでしょう。しかも女性は、主の裸足の足を号泣して「涙でぬらし」、濡れた足と涙を自分の髪の毛で拭い清め、み足に接吻して香油を塗りました。その様子は、共に食事をするシモンを不愉快にさせるに十分だったようで、シモンは主イエスが「もし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と心の中で呟きました。しかし、「罪深い女」と呼ばれる女性の具体的な罪について、ここでは一切触れられていないので、彼女がどう罪深いかは明らかではありません。ただ、当時の女性が高価な香油を買う程の金銭を得ようとすると、娼婦かそれに近い生業をしていた可能性はあったでしょう。また「罪深い女なのに」というシモンの心の呟きからは、自分はこの女性ほど罪深い者ではないという彼の自己認識が伺えます。これに気づいた主イエスは、彼のために「借金のある人と金貸しの譬え話」をされています。それは、神さまと私たち人間の関係を、莫大な借金を帳消しにしてくれる気前のいい金貸しと借金を勘弁してもらった者の関係に擬えたものです。借金を帳消しにしてもらうのに、借金した側にできることは何もありません。それは、私たちの「罪」という莫大な借金が帳消しにされる時、人間の側にできることは何も無かったことを意味します。そして、自分はより多く赦してもらったと思う人の方が、そうでない人よりも大きな感謝を抱くのは自然なことです。それは、主の十字架のみわざによって私たちの罪を赦してくださった気前のいい神さまとその憐れみにより赦された私たち人間の関係を表わしています。より多く罪赦されたと認識しているから、「罪深い」女性は喜びと感謝の涙で主の足を清め、髪で拭い、高価な香油を惜しみなく主の足に塗って献げたのです。それが女性の感謝と敬愛の精一杯の表われであるこ。 もちろん、それは、女性の主への愛のわざに免じて罪が赦されたということではありません。そうではなくて、女性の行いより先に神さまの赦しがあった、神さまの憐れみと恵みがあったということです。
 そうでなければ、第一に、莫大な借金を帳消しにしてもらった人の譬え話を、主イエスがこの箇所でされた意味がわからなくなります。また第二に、新約聖書の原文の動詞の態からも、彼女が既に赦されていてその状態が継続していることに気づかされるのです。それは48節の主の「あなたの罪は赦された」でも同じです。ですから、赦しが先行していて尚継続している、神さまの憐れみと赦しが常に全てに先行しているとわかるのです。
 この「罪深い女」には「マグダラのマリア」説や「ベタニヤのマリア」説等が古代からありましたが、様々な検証の結果、今もって誰かは特定されていません。しかし、むしろ特定しないことにこの物語の意義があるとも云われます。何故なら、私たち人間は誰もが「罪深い」者であり、その意味でこれは私たち皆の物語だからです。罪赦された喜びと感謝で精一杯の愛を主に献げようとしたこの女性は私たちキリスト者の代表的存在であり、またそうありたいと願う私たちの思いが表わされているからです。