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今週の説教

祈りの動機

説教要旨(11月10日 朝礼拝より)
ヤコブの手紙 4:1-3
伝道師 新佐依子

 人の願いは様々です。誰かの願いが叶えば、その一方で誰かの願いが潰(つい)えるということがあります。ですから、もし自分の願いを力ずくで押し通そうとすれば、そこに対立が生じるのは必至です。私たちにはあらゆる人の願いが満たされるような世界を作ることはできません。それができるのは、この世界を創造し、世界に秩序を与えておられる神様だけです。だから私たちは、自分の願いを神様に向けて願うのです。人に向けて願えば、どこかで必ず対立が生じます。でも神様に願えば、世界全体を支えておられる神様の秩序の中で、あらゆる人の願いが満たされる世界が造られるのです。
 ヤコブ書は「欲しいものが得られないのは、願い求めないからだ」と言います。神様の前ではどんなことを祈ってもかまいません。神様はいつも、私たちが自分の中にあるものをすべて注ぎだして、ご自分との全身全霊の交わりを持つことを望んでくださっています。もし、自分の中に誰かを裁いたり呪ったりする気持ちがあったら、そういうものさえも、神様の前で打ち明けるべきです。神様は、私たちが心の中に汚いものを抱えていることを、何もかもご存じですから、それを隠したところで意味はありません。むしろ、そういった汚いものをすべて神様の前にさらけ出すことで、汚い思いを抱いてしまう自分が、神様の力によって変えられていきます。神様はいつも、私たちがすべてを注ぎだして祈ることを待っておられるのです。
 しかし、そのように何もかもを注ぎだして祈れば、願いは何でも叶うのかといえば、そういうわけではありません。あんなにも一所懸命に祈ったのに、祈りは聞かれなかったという経験を、私たちは少なからずしています。なぜ必死で祈っても願いが叶わないことがあるのか。それは、「自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるから」(3)だとヤコブ書は言います。願い求めるものが悪いのではありません。その動機が悪いのだ、というのです。
 では、正しい動機というのはどういうものなのでしょう。「自分の楽しみのために使おう」と願うのが間違っているのであれば、「神様の御用のために用いていただこう」と願うのが正しいということになるのかもしれません。しかし私たちは、本当に純粋に、そんな動機で何かを願い求めることは不可能です。私たちの何かを求める気持ちというのは、自分を満足させたいという欲求があってこそ起こるものだからです。ですから、それを「間違っている」と言われたら、私たちは正しい動機で祈ることなどできないということになります。いったいどういう祈りであれば、正しい動機で祈る祈りなのか、教えてほしいくらいです。
 実はイエス様の弟子たちの中にも、イエス様に「祈ることを教えてください」と頼んだ人がいました。それに答えてイエス様が教えてくださった祈りが『主の祈り』です。『主の祈り』は私たちが祈る祈りとは全く違う、異質な祈りです。私たちの口から自然に出てくる祈りではありません。
 だから私たちは、主から教えられて『主の祈り』を祈るのです。私たちはイエス様の後についてこの祈りを口ずさむことで、もっといえば、イエス様の後についてこの人生を生きることで、『主の祈り』を祈るものへと変えられていくのです。
 私は、私たちが正しい動機で祈れるようになるためには、先に書いたように、まずは自分のすべてを注ぎだす祈りを祈ることが大切だと思います。心の中の汚いものもすべてさらけ出して祈る中で、その祈りが聞かれなかったとか、願いは叶わなかったけれども別の恵みが与えられたとか、様々な経験をします。その経験を通して、私たちは少しずつ、神様が何を望んでおられるかを学んでいきます。そして私たち自身が、正しい動機で祈るものへと変えられていくのです。その歩みこそが、キリスト者の生涯そのものなのです。