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嵐を静める主

説教要旨(9月15日 朝礼拝)
マタイによる福音書 8:23-27
牧師 藤盛勇紀

 暴風吹き荒ぶガリラヤ湖。イエスと弟子たちの舟は風に舞う木の葉のように翻弄される。しかし、運命共同体の舟に乗って、向こう岸に行くよう命じたのは、イエスご自身です。主はある意図を持って湖を行くのです。その目的は、弟子たちを訓練するためです。主は彼らに何を教えようとなさったのか。一言で言えば、「神の国(天の国)」です。
 聖書で「神の国」とは、いくつかの意味がありますが、イエス様が特に弟子たちに教えられた「神の国」は、ご自身の十字架の死と復活の後で現れる神の国です。弟子たちに聖霊が降る時にもたらされる新しい時代。主が再び来られる時まで続く時代、つまり主の教会とその時代のことです。イエス様が弟子たちに何度もたとえで語られた「神の国」は、その限定された時を生きる教会のことでした。
 しかし、主が地上で活動していた時はまだそれは隠されています。だから、神の奥義、秘義、秘められた計画と言われるのです。それが明らかにされるのは、主の昇天の後。だから前もって弟子たちを訓練しておかなければなりませんでした。後に聖霊が全てを明らかにしてくださいますが、この舟の上での出来事もいずれ来るその時のための経験でした。
 しかし、嵐の中の弟子たちはそんなことは夢にも想っていません。主がおられるのに、命を脅かされている。なのにイエスは眠っておられる! 弟子たちは恐れ怖じ惑い、叫びます。「主よ、助けてください!」。「主よ」と呼んでいますが、信仰による呼びかけではなく、恐れに囚われた者の絶叫です。「こんな時に、なぜ!」。危機に直面した時、いつの時代の人間にも起こる叫びです。「こんな苦難の時に、神はなぜ黙っているのか!」。
 昔からよく教会は舟に例えられてきました。舟は最も不安定な乗り物です。外海に出る船は、少し海が荒れれば一気に何メートルも上下する。酔いやすい人には耐え難い地獄です。
 キリストの体なる教会、主の共同体は、この世にあっては船のように常に揺さぶられ、翻弄され、時に「転覆するんじゃないか」と思われる不安や恐れの中を進んで行きます。
 だから、舟に乗り込む者には覚悟が求められます。どんな覚悟で乗り込めばよいのか。イエス様と共に舟に乗った弟子たちには覚悟が無かったのか。たしかに、主は彼らの不信仰な態度を叱っておられます。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」。
 では弟子たちはどうすべきだったのか、自分だったらどうか、どうすべきかと思います。信仰的な態度を取れるか、いや不信仰な姿を晒してしまうだろう、などと思います。
 しかし、この出来事は何か信仰的な態度を求めたり、立派で勇敢な姿勢を取ることを勧めたりしているのでしょうか。「私はどうすべきか」と考えてしまいますが、そういう問いを持って困難な事態に臨もうとするのは、むしろ、イエスというお方が何者なのかを見失わせてしまわないでしょうか。
 イエス様は弟子たちを叱りながらも、直ぐ起き上がって風と湖とをお叱りになりました。弟子たちはその主のお姿とその業を見ていただけです。驚くべき力を持ったこの方を見ただけ。この方の弟子に求められていることは多くはありません。いま共におられるイエスを見ること。この舟の中ではイエスは眠っておられる。だったら、慌てふためいて必死にもがくのではなく、イエスが眠っておられるのだったら、不安の中でも一緒に眠ってしまうことです。さすがに眠るのは無理でしょう。しかしイエスは「ああせいこうせい」と命じたり要求したりしません。この方のもとで眠れないにしても、この方のもとで静まることです。イエスの命令は「向こう岸に行け」であって、この方と共に行くことだけです。
 嵐のただ中で、今は眠っておられるこの方を見て、イエスはこのようなお方だと知ることです。弟子たちはまだ知らなかった。だから彼らも、この出来事を聞いた人々も、驚いたのです。「いったい、この方はどういう方なのだろう」と。
 信じるということは、「この方はどういう方なのか」と驚き、知ることです。この方は、ご自分から弟子たちを呼び、行くように命じ、共に行かれる方です。主の言葉に従って乗り込むなら、主ご自身が導き、戒め、励まして、向こう岸に行かせてくださいます。