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共に喜べ、収穫は多い

説教要旨(11月17日 CSとの合同礼拝)
マタイによる福音書 9:35-38
牧師 藤盛勇紀

 幼子たちが祝福をいただきました。祝福に先立って、マルコ福音書のイエス様のお言葉を読みました(マルコ10:13~16)。イエス様に触れていただきたいと、人々が子供たちをイエス様のそばに連れて来ました。ところが、弟子たちはその人々を叱ったというのです。イエスはそれを見て憤り、神の国はこの幼子のような者たちのものだ、子供のように神の国を受け入れる人でなければ決してそこに入ることはできない、と言われます。
 神の国は、神が私たちにくださる新しい命、神の愛と恵みに生かされていることです。それは、私たちが作り出したり、自ら獲得するものではありません。イエス様は、「神の国は来ている」と宣べ伝えました。ただ来る、「恵み」です。でも大人はそれを忘れます。自分でやれる、自分で生きられると思っているからです。そのために勉強もしてきたし、力も付けてきた。今はこんなに多くのものを持っている、と思っています。だから「恵み」が分からないのです。しかし、幼子は何も持たず、一人では生きられない。与えられるものを、ただ受け入れます。神の国もそういうものなのです。祝福も、ただ恵みとして与えられ、私たちはそれをいただいて生きます。
 礼拝の最後も祝福です。神を礼拝して恵みを知った人は、祝福されて世に出て行きます。これは神の約束です。神の祝福をいただいた人は、今度は自分が他の人々を祝福します。
 イエス様は弟子たちに、どこかの家に入ったら「平和があるように」と言うよう命じました。パウロは、「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい」と言いました。私たちは、この世に祝福を祈り、祝福するために、主から遣わされるのです。
 しかし、神の恵みや祝福を告げても、世の人々はまず関心がありません。そんなものよりも、何かを身につけたり獲得することで忙しいし、有能で有益な人間になりたいのです。幼子のままでは困るんです。イエス・キリストに現された神の恵みを伝え、福音を伝えることは、何と難しいことかと思わされます。
 しかし、「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え」ました。あらゆる町を回って神の国の福音を語り伝えたのです。ただ、それを誰もが聞いてくれたわけではありません。そのことは直前の箇所で明らかにされました。イエス様が伝えたことを、多くの人が喜んで聞いたのですが、その人たちも皆、自分に都合良く勘違いしています。指導者たちは、イエスしている業は悪霊の頭の力なのだと、断定しました。
 私たちは、「なんでこうなんだ」と怒ったり、がっかりしたりしそうです。しかしイエス様は、そんな世の人々を「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」と見て「深く憐れまれた」のです。そして、言われました。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」。
 今日は、「日本伝道を祈る日」でもあります。日本伝道はほとんど進まず、かえって衰退の様相です。収穫は多いはずなのに、実りがないような状況。それで、「何とかせねば、頑張らねば」となってしまいます。
 しかし、イエス様は「収穫を得るために、頑張れ」と叱咤激励してはおられません。約束しておられるのです。「収穫は多い」と。「だから、働き手を送ってくだるように、収穫の主に願いなさい」と。働き手も、神が送ってくださいます。もし「神は私をも遣わしてくださる」と分かったら、神がくださる収穫のために、働く者になります。働き手は、イエス様ご自身がなさったことをします(10章)。神は世の人々を見て憐れみ(はらわたを痛め)、ご自分の腹に抱え込んでしまうほどに愛しておられます。人がご自分から離れてしまうのは辛く、耐え難いのです。しかし忍耐して「私のもとに来い」と招かれます。
 「働き手」は、与えられた実りを穫り入れる人。イエスに結ばれて、神の祝福をたっぷりいただいている人です。そして、さらに大きな約束を信じて、楽しみにして待ち、時が来たらその収穫に与って、恵みを味わい喜び楽しむ人です。この恵みがイエス様にあります。私たちのために命を献げてくださったこのお方に結ばれて、躊躇うことなく大胆に。神に近づいて祝福をいただきましょう。