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言葉を与える霊

説教要旨(12月1日 朝礼拝)
マタイによる福音書 10:16-25
牧師 藤盛勇紀

 イエス様が十二弟子を使徒として派遣するにあたって語られた言葉が5節から続いていて、10章の最後まで続きます。今日の箇所で主は、「狼の群れに羊を送り込むようなものだ」と言われます。厳しい迫害や圧迫を受けることが避けられないと感じさせられます。今の日本で露骨な迫害はまずありませんが、教会が生まれてから数百年は迫害の時代でした。時代によって迫害の形は変わります。「狼の群れに羊を送り込むようなもの」と聞けば、伝道の困難さを思わされます。しかし、なぜ私たちは羊のように世に送り込まれるのでしょうか。狼に対抗し得る力を備えた者のように送り出してくださらないのはなぜか。
 派遣される者は、イエス様がなさったことをする者です。イエスご自身、羊のような者、犠牲の小羊として、この世でのお働きを完うされました。イザヤ53章に語られているように、人々から軽蔑され、嘲られ、罵られながら命を取られた。そのようにして、命の道、真理を現されました。主ご自身言われます。「私の名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる」。イエス様ご自身が私たちをそのようにさせたのです。人々の前に引き出されたり痛めつけられたりする。厳しく過酷なことだと思われます。
 「私には耐え難い」「そんなことになったら私はどうしたらいいのか」と思うでしょう。しかし、イエス様のためですから、主ご自身が責任を持ってくださいます。だから「引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない」と言うのです。「そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である」と。
 弟子たちは、使徒になりたいと願ったわけではありません。主が、彼らを選び、権威を与え使命を与え、彼らを遣わされたのです。彼らは決して出来の良い弟子でも、優れた人間でもありません。けれども、そんな彼らを責任をもってイエスご自身が派遣されます。だから「心配するな」と。
 イエス様が復活なさって弟子たちに現れた時、言われました。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす」。そして彼らに息を吹きかけ、「聖霊を受けなさい」と。
 イエス様から遣われるのは、聖霊をいただいて遣わされることです。神が責任を持って、派遣されます。だから心配は要りません。ただ、霊が語ってくださると言っても、何も考えずぼーっとしていれば口が勝手に動き出す、などということではありません。聖霊は私たちを用いて働き、語られます。一人一人に与えられた賜物が用いられます。私たちは与えられた賜物をお献げします。
 主はこう言われます。「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」。でも、「いや私そんなに賢くない」と思われるでしょうか。主はあなたに無いものを要求なさいません。自分の知恵や思いを主に向ければよいのです。「あの人たちの前でどうしよう」とか、人を見る心配ではありません。「素直」は「無垢」とか「純粋」とも訳されます。混じりけが無く染まっていないのです。世の人々の賢さを恐れたり、人々の言葉を気にしたり、そんなことで染められず、思いを引っ張られず、ただ主に対して無垢であることです。幼子のように信頼してしまうのです。
 主が働いて語ってくださる。その事実に思いを向けて、まず自分が主から聞くのです。説教者もそうですが、まず自分がみ言葉を聴き取ることに心を傾けます。自分で聞いたら、出てきます。私の内で主が語ってくださる。私を用いて主が御心を現される。こんな私を通して、主がご自身を表現してくださる。
 であれば、どんな所でも、どんな状況でも語らせられます。もし、あなたが「ちょっと耐え難い。逃げ出したい」と思ったら、逃げたらよいのです。主も「逃げて行きなさい」と言われますし、逃げて行く者を用いられます(使徒8:1-4)。彼らも思いもよらなかった仕方で、イエスの約束が成就して行きました(使徒1:8)。弟子たちは、こんな自分たちが、いったいどうやって主の証人などになるのだろうと思ったでしょう。しかし、彼らの内に注がれた聖霊が、思いもしなかった言葉を与え、働かれたのです。今の私たちにもです。