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祝福を受け継ぐ者

説教要旨(5月12日 朝礼拝)
ペトロの手紙I 3:8-12
牧師 星野江理香

 「終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい」
 私たちは礼拝者として、立場も地位も関係なく共に礼拝をささげます。しかし、世に出れば、性別や立場も違い、健康状態や気質等にも左右され、考え方や感じ方は異なり、簡単に「話しあえばわかりあえる」と言えるほど「一つに」なるのは容易ではありません。 
 旧約聖書にある「目には目を、歯に歯を」の同害復讐規定は、憎しみの連鎖や被害拡大を防止するものであり、人間の罪深さがはかり知られます。ところが主イエスは、「復讐してはならない」、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈」るよう弟子たちに言われました。また、どこまでも御父に忠実な主イエス=キリストは、十字架の死に際してもご自分への侮蔑や悪意に対してとりなしの祈りをされ、その主に私たちキリスト者は結ばれています。もちろん、全ての者の贖いのために十字架の死を受け容れられた罪無き御方であり、子なる神であり給う方と私たちは同じではありません。しかし、御憐れみと御霊によって、主を模範とする生き方へと導かれているのです。
 また旧約のアブラハムに与えられた「すべての民の祝福の源」となる約束は、今や新しいイスラエルとしてのキリスト者に移され、主の救いの恵みというこの上もない祝福は、キリスト者を源として全世界に広められることになりました。そのようにして、私たちは「祝福を受け継ぐ者」とされたのです。
 卒業式や入学式、結婚式などの時、私たちは「おめでとう」と祝福の言葉を贈ります。「祝福する」とはそんな何気ない私たちの日常の行為でもあります。また「祝福する」の新約聖書の言葉の元来の意味は「積極的に親切を示す」というものですから、私たちが誰かの「祝福を祈る」時、それは神様がその人に積極的に親切にされること、神様がその人を愛して恵みを豊かに与えてくださることを祈り求めることになります。
 その一方、人に傷つけられた私たちの苦しみや怒りはどうなるのかというと、ここに「主の耳は彼らの祈りに傾けられる」とあるように、祝福の祈りと共に神様に届けられ、受け留めていただけるのです。私たち自身が復讐や報復をしなくても、私たちに向けられた悪への裁きは、「主の顔は悪事を働く者に対して向けられる」とあるように、愛であると共に義であり給う主によって行われるからです。ですから、怒りや憤りは主にお預けして、私たちは「祝福を受け継ぎ」「祝福を祈る」者として生きたいのです。
 私たちキリスト者が「心を一つに」するのは、決して全体主義的思考や思想を意味するものではありません。主を信じ、同じ信仰を告白するところに「心を一つに」することが実現されます。また、「同情し合い」と訳されているのは、本来「共に苦しむ」という意味であるそうです。それは「ローマの信徒への手紙」に「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(12:15)と語られていることに通じます。私たちは、そのようにして、互いに支えあい補いあう共同体を形成し、神様の愛と主イエスによる救いの恵みを他の多くの人々へと及ぼすように召されています。また最後の「謙虚に」は、 心が低いというのが本来の言葉の意味です。それは、御前における自分の無力や罪深さを認識することであって、遠慮をすることではありません。また、真実に主に出会っていないのならば、自分の低さ・無力さ・罪深さを知ることはできないでしょう。
 ここで明らかにされたように、私たちは「祝福を受け継ぐため」に召されたのですから、そのような者としてお互いを祝福し、また互いに祝福を祈りあう私たちであることを常に自覚していたいのです。そして、主イエス・キリストによる救いの到来という、この上もなく尊く大きな祝福を伝え、証しして、将来的な大いなる祝福…御国を継ぐ者としての歩みを、一歩ずつ進めていきたいと願います。