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他人を量ってどうする

説教要旨(6月23日 朝礼拝)
マタイによる福音書 7:1-6
牧師 藤盛勇紀

 「おが屑」と「丸太」のような極端な対比は、ユダヤ人の間ではよく使われますが、「おが屑」は一般的な「ちり」です。また、「丸太」と訳されている言葉は「受け入れる」という意味の言葉から来ているそうで、大きな木材が家の建築にしっかり組み込まれたイメージで、「梁」がしっくり来ます。「梁」は、自分でも気づかないうちに自分の中に取り込んでガッチリ固まってしまっているもの。パウロが言った「要塞」という言葉を思い起こします。2コリント10:4ですが、それがどんなものなのかは、その4~6節から分かります。よく使う言葉で言うならば「コンプレックス」。それが秤や物差しになってしまうのです。人を量る物差しと言えば、自分を棚上げして人を批判する尺度ですが、それによって実は自分自身が傷ついています。しかし、それを認めたくないのです。
 「自分はとてもおっちょこちょいだ」と思っていて、自分でもそう言っている人は、「あなたはおっちょこちょいね」と言われても傷つきません。逆に、「私は何事にも慎重だ」と思っている人に、「あなたはおっちょこちょいだ」と言ったら、傷つき、怒り出すでしょう。
 自分では案外気づかないのは、自分が抱えているコンプレックスで他人を量ったり裁いたりするということです。人のことをとやかく言いつつ、実はその問題を自分が非常に気にしていることがあります。他人を「おっちょこちょい」と厳しく批判する人は、無意識の内に「私は他人からそんな人間に思われたくない」「いつも冷静に判断して行動しなければならない」とガチガチになっていたりします。他人を量りながら、実は自分をも量っている。
 ある事について傷つきやすい人は、その物差しを自分の内にガッチリ抱え込んでいます。そこに触れられると、健やかな反応ができず、人間関係もギクシャクし、激しく反発して一気に壊れたりします。
 それが全く無かったのはイエス様です。人々から批判や悪口を浴びせられました。「あの人は罪人と一緒に食事をしている」「大食漢の大酒飲みだ」と。しかしイエス様は、傷ついたり怒ったりしません。「…してはならない」とか「…でなければならない」といった人間の言い伝えなどを、ご自分の内に秤や物差しとして持っておられなかったからです。
 直前の箇所で、イエス様は有名な話をなさいました。「空の鳥を見なさい。野の花を見なさい」と。そして「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」。なのに、あなたがたは思い悩みで満ちていると。私たちの内に取り込んでいる秤や物差しが「要塞」となっているからです。自分の思いは患い、魂が傷つき、「自分でなんとかしないと」と焦っている。
 罪人に対してはどこまでも憐れみ深い主は、大胆で自由で、神の国の現れを妨げるものにはハッキリ批判し、キッパリ拒否し、極めてドライでした。今日の箇所でも主は「偽善者よ」と言われます。ファリサイ派や律法学者たちのことですが、主は彼らにこう言われました。「あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない」(ヨハネ8:23)。そして弟子たちもそうなのだと。命の根拠、尺度をこの世に置いていないのです。だから「蛇よ、蝮の子らよ」と厳しい言葉を浴びせました。
 最後の晩餐の夜、ご自分の身に危険が迫っていることを悟られた主はこう言われました。「世の支配者が来る。だが、彼は私をどうすることもできない」。「世の支配者」とはサタンのことですが、「彼は私をどうすることもできない」。これは原文通りには、「彼は私の内に何も持っていない」です。イエス様の内に何も持っていないから、内側に入り込めない。足掛かりや足場がないのです。
 しかしサタンは、私たちの内にいとも簡単に足場を見つけて魂に働きかけます。それは、私たちが自分の内に「梁」を置いているからです。それが大きな足掛かりになってしまう。すると、神よりも人のことが気になって、サタンの言いなりになってしまうのです。
 自分の魂の内に悪魔的な力が働く足掛かりを取り込んではならないのです。魂の内には、主の思いと御言葉があるべきです。「神聖なものを犬に与えるな」「真珠を豚に投げてはならない」。むしろ「私たちはキリストの思いを抱いています」(1コリント2:16)。そして、「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」(コロサイ3:16)。