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静かな信頼の力

説教要旨(5月5日 朝礼拝)
マタイによる福音書 6:9-15
牧師 藤盛勇紀

 「来たれ、来たれ、苦しみ…」といった祈りを、日本のキリスト者は重んじてきたのではないでしょうか。試練や苦難を避けるのでなく、むしろ立ち向かう信仰、苦難に挑む信仰こそ真実だと。ところが、主が教えられた祈りの最後は、「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」です。新共同訳で「悪い者」とあるのは、単に「悪」。良くないものや嫌なことでもあります。悩み苦しみ、様々な危険、体に悪いこと。そんなことから救ってくださいと。それは何か逃げ腰の信仰という印象になるでしょう。しかしイエス様は、「悪に遭わせないで」と願えと言われます。立ち向かうよりも、それらから逃れてることを求めさせるのです。
 パウロもテモテに言いました。「願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。…平穏で落ち着いた生活を送るためです。これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです」(1テモテ2:1-3)。殉教者のような生き方が証しとなることがあります。しかしそれは、決してスタンダードではないし、迫害や危険を呼び込むような生き方を主は願っておられません。もしそうした苦難が避けられないのであれば、主は私たちを殉教者にもすることもおできになります。前もって心配する必要などありません(1コリント10:13)。
 イエス様は言われました。「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい」。実際エルサレムで教会に迫害が起こったとき、主立った人たち以外は皆逃げて行きました。しかし「散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた」(使徒8:4)。こうして、思いもしないかたちで主の約束(使徒1:8)が成就して行ったのです。「聖霊が降るとあなたがたは力を受ける」とは、たとえばパウロのような英雄的な働きだけではありません。逃亡によって各地にキリストを伝えることもあるのです。人知を超えた聖霊の力、主の働きです。私たちの生活の基本は、平穏で平和な生き方を求めることです。もし「もうこれ以上の苦難は無理」となったら、逃げ出しても良い、避けられるなら避ける、で良いのです。
 信仰的英雄と思われているルターは、ヴォルムスの国会に召喚され、皇帝や諸侯が居並ぶ場に独り立たされました。しかしそこで「我ここに立つ」と言ったのは有名です。ルターもパウロも言わば独り立ちました。しかしそこは英雄が立つような場所ではありません。パウロにしてもルターにしても、そこは自分で選んだわけではなく、自分の力で立っているのでもない。ただ、何によって立っているかは明確でした。エルサレムから逃亡して行った弟子たちが福音を伝えたように、彼らをも立たせたのは、ただキリストの福音でした。
 様々な危機や力が私たちを脅かし、私たちは自分の体を通して痛みを感じ、恐れを覚え、心身も弱くなります。しかしそれら全ては過ぎゆくものです。自分の体もいずれ衰え滅びます。私たちが生きるのは、この肉体のような物質的なものによるのではありません。私たちを新たに生かしているのは神の霊、イエスの命です(2コリント4:8~11)。私たちは主の霊によって養われ続けます。だから私たちは「見えるものではなく、見えないものに目を注いで生きる」と言うのです。
 痛みや悩みや嫌なことが体を通して来ますが、私たちがキリストにあるならば、そうした外面的なことは自分に起こっていながら《他人事》にできます。《赦し》もそうでした。イザヤは言います(30:15)。「わが主なる神は、こう言われた。『お前たちは、立ち帰って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある』と」。イエス様は言われます「だから…思い悩むな。…空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」。《他人事》と言ったのは、神ご自身がしてくださるからです。それほどに憐れみ深い方が父だからです。私たちは主の言葉に従って「試みにあわせないで」と祈りながら、信頼に習熟していくのです。