ホーム | 説教 | 説教(2024年度) | 空の鳥、野の花を見なさい

空の鳥、野の花を見なさい

説教要旨(6月16日 CSとの合同礼拝)
マタイによる福音書 6:25-34
牧師 藤盛勇紀

 「空の鳥をよく見なさい」「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい」。父なる神様は鳥や花を養っていてくださるじゃないか。食べ物のために働くわけでもないし、綺麗に見せるものを作ったりしない。でも、その小さな花をよく見てごらん。こんなに可愛かったんだ、と思うだろう? 神様はこんな花も装ってくださっている。「まして」あなたがたにはなおさらだ。イエス様はこのことに気づいてほしいんです。だから「信仰の薄い者たちよ」と言われます。あなた方は毎日いろんなことを心配してる。明日のこと、来年のこと、老後のこと。そんなあなたはいったい何を信じて、何に信頼して生きているのかと。
 イエス様は「思い悩むな」と言われます。「思い悩み」は「思い煩い」。意味は同じですが、「思い悩み」は「思いが患う」こと。いろんなことが心の上にのしかかって、押し潰されそうになります。自分がギューっと小さくなって、心の手足が縛らたかのようになります。手足を伸ばして息を一杯吸い込むように、気持ち良く自由になれない。
 だからイエス様は、「空の鳥をよく見てごらん」「野の花をよく注意して見てごらん」と言われます。それを見ながら、あなたの天の父、神様のことを思いなさい。神様は鳥を自由にしておられる。野の小さな花をこんなに可憐に装ってくださっている。まして、あなた方は鳥よりももっと価値がある神の子なのに、あなた方の心で思っていることは、神様に向いていないね、信仰の薄い者たちよ。
 鳥に食べ物を備えてくださる神様は、私たちはなおさら良いものを用意しておられます。私たちが何もしなくても、食べ物が与えられるということではありません。食べ物の心配は必要なことです。イエス様や弟子たちも、毎日食べる物のことは考えていました。今日泊まる所のことも心配しければなりませんでした。「心配」は心を配ること。「これはこうしよう。あのことはこうしておこう」と。そういう心配や働きは毎日必要です。だからイエス様は、「その日の苦労は、その日だけで十分」だと言われます。それは思い煩いとは違います。私たちも毎日「あれはどうしよう」「これはこうしよう」と考えて働きます。必要なことです。イエス様が何度も言われたことは、そういうことがあなた方に必要だということは、あなた方の天の父なる神様がよく知っておられるんだよ、ということです。
 そしてこう言われました。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」。目には見えないけれども、神様が私たちを治めておられ、用意をしてくださっていて、導いておられること。神様が私たちの神であられ、良いことだけを考えてくださっているということです。それを「求めなさい」。求めるのは、信じているからです。でもあなた方はどうなのかと。
 何よりもまず神の国と神の義を求める。「そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」。毎日心配しなければならないことがあるけれど、天の父に信頼して、安心して心を配っているなら、天の父はあなたが求めること以上に、「みな加えて与えられる」。あなた方には「なおさら」なのだから。
 天の父が良くしてくださることを信頼して、私たちは「今日これをしよう、あれもしよう」と考えるのでしょう。心配事があるならば、神様は私に必要なことを知っていてくださる、と思いを神様に向けることです。「神様、私はいまこれが必要なんですけど、どう考えても足りないようなんです」と、困っていることを神様に打ち明けて、「神様、私は今こうしますから、必要な力を、必要なものを与えてください」と祈りながら、今日すべきことをするのです。
 もし、思いわずらうなら潰れて行きます。でも、「天の父よ…」と祈る人は、手足を伸ばすように、解き放たれて、自由に心配もし、勉強もし、自分の働きをします。「明日のことまで思い悩むな」と言ってくださるイエス様の言葉を聞きながら、私たちも鳥のように自由に、野の花のように上を向いて、今日を生き生かされたいと願います。