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羊の皮をまとう狼

説教要旨(7月21日 朝礼拝)
マタイによる福音書 7:15-20
牧師 藤盛勇紀

 「偽預言者を警戒しなさい」。偽預言者とは何でしょうか。直前の「狭い門」の所で、「広い門」はどんな人をも招き入れるような広々とした門であり道でした。「狭い門」であるイエス様は、「私に入れ」と言われるのです。しかし、入って行く者が少ない。その理由の一つが「偽預言者」たちの存在です。
 厄介なのは、偽預言者は「羊の衣を身にまとってあなたがたのところに来る」ことです。優しくて、いかにも従順そうで、謙遜な顔をしてやって来るのです。
 そんな偽預言者をどう警戒せよというのか。キリストの死と復活の後、誕生間もない教会は、たちまち偽預言者のような人々によって惑わされ、信者たちは何か善いものや、優れたものに惹かれて行きます。その様子はパウロが記した幾つもの手紙を読めば分かります。もともと教会の迫害者だったパウロは、ひたすら福音を語り続ける一方、自分が偽使徒ではないことを証ししなければなりませんでした。それは偽預言者、偽教師たちとの戦いでもありました。「こういう者たちは偽使徒、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです」(2コリ11:13~14)。優しく従順な羊を装うどころではありません。
 こんな偽預言者をどう見分けたらよいのでしょうか。しかも、偽預言者は教会にいるキリスト者なのです。そうすると、いったい誰のことかと疑心暗鬼になりかねませんし、自分自身が偽預言者になってしまうかもしれない。いったいどうしたらよいのか。
 しかし主は、「あなたがたは、その実で彼らを見分ける」と繰り返し言われます。それだけです。でも、「実」とは何でしょうか。
 いま祈祷会でガラテヤ書を学んでいます。ガラテヤの諸教会も、パウロの後に教会に入って来た教師たちによって、信仰的な危機に陥っていました。その危機は「律法主義」の危機です。自分が何かを行うことによって命を得よう、救いに至ろうとする生き方、簡単に言えば「行い主義」です。
 イエス様が、有名な「善いサマリア人のたとえ」(ルカ15章)を話されたのは、敵対していた律法学者がこう問うたことからです。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか?」。自分が救われるために、どんな善いことをしたららよいか、どんな善行を積めばよいのか。そう問うこと自体、すでに終わっています。しかし、この考え方を教会に持ち込もうとする人々が、いつでもいるのです。パウロはそうした人々と戦いましたし、ペトロやヨハネの手紙を見ても、やはりそうした戦いが常にあることを教えてくれています。聖書は、律法主義あるいは「行い主義」を完全に否定して、私たちはただ信仰のみによって、ただ恵みによって救われ、完成に向かって生きると語っています。
 主は、「その実」で見分けると言われます。「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない」。ここで、「良い実を結ぶとは何をすることなんだろう。何をすればよいのか」と考えてしまったら、あの律法学者たちと同じです。羊の皮をまとう狼です。
 私たちにとって「良い」のは、ただキリストだけです。「良い実」は全て、ただキリストから来ます。主は言われました。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(ヨハネ15:4~5)。
 偽預言者は、キリストの恵み以外のものに目を向けて、救いや命を求めようとする者です。キリストの恵みから落ちて、人間の善い行い、良い言葉、優しい人の何か…。そうしたものに拠り頼む人々です。キリストとその恵みから落ちる危険は、いつでも私たち自身の内にあります。だから警戒しましょう。ただ「信仰の創始者、完成者であるイエスを見つめて」(ヘブライ12:2)。