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求める者は受ける

説教要旨(6月30日 朝礼拝)
マタイによる福音書 7:7-12
牧師 藤盛勇紀

 イエス様は「求めよ」と命じられます。するとどうなのか。「与えられる」。あまりにもストレートで、かえって真っ直ぐに受け止められず、「そう単純には行かない。主は何を言おうとしておられるのか。何を考えさせようとしておられるのか」と考えてしまいます。
 単純なことです。私たちは不信仰なんです。主とその真実が信じられない。なのに信じて御言葉を聞いている風を装っている。主は「求めよ」と命じておられます。しかし私たちは、「求めることなんか簡単だ」「私はいつだって求めている」と思っています。そして、「主は与えてくださるが、与えられないことも多い。それが現実だ」と。だから「どうしようか」と思い煩い、「他に意味ある何かがあるんだろう」と。
 イエス様が命じるのは、あなたが求めないから。単純な話です。求めるとすれば、信頼しているから。信仰です。キリスト者であれば誰でも祈るでしょう。求め願っている。なのに、「でも与えられない」とも思っている。
 「求める」「探す」「叩く」。簡単なことのように思われますが、簡単ではありません。私たちが何かを求めるとき、心の底に「どうせダメだろう」という思いを残しています。それは、あとで期待を裏切られなくないから、与えられなかった時にショックを受けたり沈んだりしたくないからです。つまり保険を掛けているんです。あとで「ほらやっぱり」「まあ、これが現実だから」「はじめから分かっていたし」と言って、傷つかない風でいたい。あとでダメージを受けないように、自分で自分を守っている。信頼がない、不信仰です。
 求めるのは信頼していることです。だから求めるのは、ある意味「賭け」です。自分を投げていること。でもそれは恐いことなので「もし…」と考えてしまう。「もし与えられなかったら、見つからなかったら、開かれなかったら」と、どこかで考えてしまって、投げきれない、飛びきれないのです。
 そんな私たちだから、イエス様は「求めよ」と命じるのでしょう。主が私たちに迫っておられます。「さあ、信頼して求めよ」「求めてごらん」と。実は《主が》求めているんです。主に信頼する私たちを求めている。主を信じる私たちを探している。主に信頼を寄せるように、私たちを叩き続けておられるんです。
 与えられないのは、求めていないからです。こう言うと怒り出す人もいるでしょう。私は真剣に求めているのに、と。本当にそうならば、あなたはなお求め続ける。それでよいでしょう。「祈り求めるものはすべて、既に得られたと信じなさい」(マルコ11:24)。
 「求める」というのは、そう簡単なことではありません。私たちが神に対して単純で真っ直ぐではないからです。しかし、神は真っ直ぐに私たちを求め続けておられます。「求めよ。探せよ。叩けよ」と。私たちは求められています、神が探し求める対象なのです。私たちは探されています。最初の人間アダムとエバが自ら神に背反し、神から自分を隠すようになって以来です。
 イエス様はここでただ命じるだけでなく、約束しておられます。「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」。なぜですか? あなたがたが求める以上に、あなたがたの父が、求めておられるからです。
 イエス様は「あなたがたの天の父」のことを語っておられます。「まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださる」。あなたがたの天の父がくださるのだ、と。だから「思い悩むな」「空の鳥、野の花を見よ」と言われ、「まして、あなたがたにはなおさらだ。信仰の薄い者たちよ」と言われました。
 「まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」。それがあなたがたの父なのだ。なのに、私たちは求めることに臆病になって、不信仰で思い患っています。主は、「そこから出よ!」と言われるのです。イエス様は「何でも願え」と言われました。でも「どうせ」と思って、「これは祈ってはダメだ。これなら聞かれるかも」と、神に祈る前に自分で裁いてしまっている。神を退け、自分が中心。しかし神は、求めてほしいのです。神に求めるあなたに、神は与えてくださる。そのようにして、神はあなたと共に豊かになりたいのです。