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賢い人と愚かな人

説教要旨(8月4日 朝礼拝)
マタイによる福音書 7:24-29
牧師 藤盛勇紀

 5章から続いた山上の説教を、主は語り終えられました。すると「群衆はその教えに非常に驚いた。律法学者たちのようにではなく、権威ある者としてお教えになられたから」だというのです。本来権威は力です。聞いた者自身が、自らその教えに従ってそのようにしたい、生きたいと思わせ、動かす力です。
 イエス様が語られる山上の説教は、初めから逆説的で非現実的と思われる言葉の連続でした。なのになぜか、ここまで聞いてきた者には、この方にこそ真実があると思わせ、そのように生きたいと思わせ、これを語っておられるイエスご自身の存在そのものの力に揺さぶられ、動かされるのです。
 それを聞くことがそのまま私の現実となる。イエスが愛を語ることは、私がそのまま愛されること、そして、私たちが愛する者とされていくことになる。「幸いなるかな、心の貧しき者」と語られるのは、そのまま心の貧しき者がまさに幸いを知ることになり、「大いに喜べ」と言われたのは、まさに「迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき」、私が喜べることなのです。
 ただし、それは権威ある方の言葉として聞き、この方の存在そのものに触れられて、信頼する者にとってです。そうでなければ、山上の教えなどせいぜい理想的だが現実性のない言葉に過ぎないでしょう。だから主は、「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は」と言い、しかし「聞くだけで行わない者は」と言われるのです。ここで、聞くことと行うことを分けて、「言葉だけでなく実践が大事だ」と考える人もいるでしょう。しかし、そうした発想は、繰り返し言っていますが、律法学者たちの発想なのです。「救われるため、命を得るためには、何をすればよいのか」という行い主義。しかし、彼らも結局、自分ではできないのです(⇒23:4)。
 イエスは、そんな「自分を捨てよ」と言われました。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失う」と。「私が」ではなく、「主が」十字架で命を捨てられたのです。私たちはこの方の言葉を聞いて、そのままいただきます。聞いて、生きるのです。
 主は、「岩の上に家を建てた賢い人」と「砂の上に家を建てた愚かな人」のたとえで山上の説教を締めくられました。このたとえは説明不要です。この言葉を、他でもないこの方から聞いて生きる。この岩の上に生きる。「岩」とはイエスご自身だと分かるでしょう。それが「賢い人」と言われるのです。この賢さは、世の知恵・人間から出る知恵ではありません(1コリント1:21)。パウロは、「召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えている」と言い、「キリストは、私たちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられた」(1:30)と言いました。このお方に触れるとはどういうことでしょうか。「神の霊以外に神のことを知る者はいません。私たちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それで私たちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。私たちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、"霊"に教えられた言葉によっています」(2:11-13)。
 「神から恵みとして与えられたもの」は、恵みそのものであるイエス・キリストです。このお方は全くの恵みとして、私たちへと来てくださった方。この方を知るのは、神が与えてくださる「霊」によります。そのために、主は十字架に向かわれるのです。この山上の説教を語っておられる時、すでにイエス様は十字架の死を目指しておられます。主は十字架につき、復活し、「命を与える霊」となられました。そして今、私たちの内に住んでおられます。この命の霊の交わりによって、私たちは「神から恵みとして与えられたもの」を知るようになったのです。
 私たちがただこの方を生き、この方が私たちを生きてくださる。それが、主が私たちに求め願っておられることです。これは人間の知恵には愚かしく現実味が無く、力の無いことと思われます。だから「狭い門」なのです。主ご自身が「門」だからです(ヨハネ10:9)。
 イエスという岩に出会った者は、この方を深く掘り下げるように して生き(ルカ6:48)、私たちの内に生きてくださるこの方から、あらゆる良いものをいただくのです。