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約束が前を向かせる

説教要旨(6月9日 朝礼拝)
ハバクク書 2:1-4
牧師 小宮一文

 何か月か前から、このハバクク書の2章3節の言葉に心が捕らえられるようになりました。「それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない」。
 エレミヤが「主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて火のように燃え上ります。押さえつけておこうとして、わたしは疲れ果てました。わたしの負けです」と言ったように、神さまがハバククに語ったこの言葉が、生きている言葉のように、ずっと自分に迫ってくるのを感じていました。
 私はバビロン捕囚というイスラエルの民が経験した出来事が不思議でした。特にバビロンへと連れ去られたあとのことで、イスラエルの人びとはそこで少なくとも五十年は暮らしています。二十歳の若者が七十歳になる計算です。
 その年月は、イスラエルの人びとが故郷から遠く離れた地で、そこで子どもの世代が生まれて育つように働いて暮らしていたということを示しています。絶望して反乱を起こして皆殺しにされたのでもなければ、集団自決を企てたのでもありません。不思議なほど、未来に対して「腐った」痕跡がないのです。そのとき、何らかの力が働いて、この人たちの意志を越えて、この人たちの中に前向きな生活を形作っていったということです。それは神さまの声を聞いていたからではないでしょうか。「たとえ、遅くなっても待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない」。
 ヘブライ語で「未来」と「背中」は同じ言葉であらわされます。背中に未来がくっついていると昔の人は考えました。これは手漕ぎのボートに似ています。ボートを漕ぐ人にとって自分の進行方向は見えません。でもその背中に「遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない」という声が響いているならどうでしょうか。
 未来が背中にあっても前にあっても見えないのはどちらも同じです。見えないのに見ようとするから思いわずらうのだと思います。それは自分の力で立っていこうとする罪でしかありません。
 背中に「待っておれ」という声のないボートの漕ぎ手は孤独です。「一体いつまで、どこまで」と、そうやって先が見えないまま、ひとり漕ぐしかありません。そのオールを握る手も、見えない未来に押し潰されて、簡単に力を失うと思います。
 しかし「遅くなっても待っておれ」という声を背中に受けながら生きる人は幸せだと思います。その人は神さまに背中を持ってもらいながら、目の前にあることを喜んで、希望を持ってやっていくことができます。目の前にあるオールをいっしょうけんめい漕ぐことができるのです。
 その人はオールを漕ぐことのひとつひとつがどれも無駄にならないことを知っています。待っておれ、お前の歩みに無駄なことなんてなにもないんだよ、お前の道はわたしが最後に完成させるから、待っておれ、わたしが最後に仕上げてあげるから、お前は目の前のオールを漕いでごらん、と神さまは励ましているのです。
 「主の再び来りたまふを待ち望む」人は幸せです。自分の働きが、終わりの日に神さまが完成してくださることを約束されて、すべての生涯を生きることができるからです。「主の再び来りたまふを待ち望む」とは、自分の漕ぐ、オールの一回一回が、なにひとつ無駄にならないように神さまがしてくださって、そのことの上に生きるということです。
 神さまは捕囚の民の背中に語りかけたのです。「お前の背中は父ちゃんがしっかり支えていてやるからな。だから安心して目の前のオールを漕いでごらん。お前が漕いだこと、なにひとつ無駄になることはないんだよ。だからわたしが来る日を顔をあげて喜んで待っておれ」と言っているのです。