美しい足

説教要旨(5月3日 朝礼拝より)
ローマの信徒への手紙 10:14-17
牧師 藤盛勇紀

 誰でも、「良い知らせを待つ」という経験があります。ドラマのシーンにもよくありますが、私も最初の子供が生まれた時、帝王切開での出産だったので待合室で待たされました。廊下に足音がする度に、「生まれたか」と思います。でも予定の時刻より遅れるのが普通だそうで、こちらはただ待つだけです。何度目かの足音が、「おめでとうございます。元気な女の子ですよ」と告げる声になります。足音は、意味のある嬉しい知らせとなるのです。
 ここでパウロは預言者イザヤの言葉を引用します。「良い知らせを伝える者の足は、《なんと美しいことか》」。伝える者の「足」が美しいとはどういうことでしょうか?  良い知らせを伝える者が山々を行き巡り、町や村を駆け巡ります。その後には安堵と喜びが広がっていく。平和の喜びを撒き散らしながら走っているヴィジョンです。
 「足」は喜ばしい知らせを持ち運びます。その《美しさ》は足自体の見た目ではなく《働き》《用いられ方》の美しさなのです。
 世には様々な美しいものがありますが、良いメッセージなど何も持っていないつまらない美しさも溢れています。しかし「足が美しい」と受け止る状況があります。それは、こちらからは何もできず、ただ待つという、待合室的状況です。
 「待つしかない」という状況、実は全ての人間に共通の根本的な困窮状態ではないでしょうか。私たちは今、緊急事態の中で状況が変わることを待っています。私たちにできることもありますが、外出を控えるとか密を避ける《自粛》。消極的なことです。この状況が変わるのを待つしかありません。
 人間が真の命を得るため、本当に真理に与り真の平安を得るために、待つしかない。つまり人間は、自分の積極的な働きや行いによっては自分を救うことができない、真の命の問題について言えば、人が人を癒すことはできないのです。
 パウロはそうした人間についての「正しい認識」の大切さをこの10章の冒頭で語りました(10:2)。同胞のユダヤ人は、神に仕える熱心さ、救いへの熱心さのあまり、言わば自分から手術室に入り、自分で自分を手術してしまうような、何ともおかしな事態に陥っていた。そうした根本問題を指摘しました。しかし、《人間は自らを救うことはできない》。救いがあるとしたら、それは「来る」。だから待つしかないのです。
 そして実は、私たちに必要なその救いは、《すでに来ている》のです。しかも、いただけばよいだけの《恵みとして》来ている。だから、伝えられるべきなのです。パウロが批判するユダヤ人のように、「あれをしなければならない」「こうでなければならない」のでなく、誰でもその恵みをいただける、まさに「喜ばしい知らせ」《福音》だから「伝えられるべき」なのです。そこで、新しい出来事が起こり、新しい生が始まります。たとえば「おめでとうございます。元気な女の子ですよ」と告げられると、それを聞いた者はそこで女の子の父親になる。一つの大きな出来事が起こり、新しい生が始まるのです。
 救いの真理も、自分の知恵を駆使しても、能力を総動員しても獲得できるものではありません。それは《伝えられ》、《聞かれ》なければならないのです。私に伝えられた福音に出会い、私の出来事として起こる。救いはそうした出来事としての真理、出会いの真理です。イエス様は「私が道であり、真理であり、命である」と言われました。このお方と出会って知ることです。救いは、《伝えられた真理と出会う出来事》です。
 「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」。救いの真理は《このお方》だから、向こうからやって来ます。救いをもたらす方、救いの主なるお方は、人を用い、人を生かし、人にそれを運ばせるのです。