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平和へのもう一歩

説教要旨(8月16日 朝礼拝より)
ローマの信徒への手紙 12:1-21
牧師 藤盛勇紀

感染症の問題に劣らず、全世界が戦争の危機と世界秩序の再編の混乱に巻き込まれています。このような事態の中で、「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」。そして、「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい」との御言葉を聞いて、どう生きることができるでしょうか。
 宗教改革者たちは、あなたの善良さが人の言いなりになってはならない、平和と言いいつつ人の罪を増強させるようなことになってはならない、と言いました。悪や罪に対しては抵抗すべきですし、戦わなければなりません。では、どうするのか?
 具体的な勧めが語られる12章に入ってすぐ、こうありました。「信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです」。これは信仰によって「思慮深く」生きるということでしたが、同様のことがここでは、「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に過ごしなさい」とあります。
 「できれば(できる限り)」全ての人と平和に過ごす。単純な可能性ではありません。人間関係でも国際関係においても、多くの悪が満ちています。悪人ではない普通の人も「少なくとも自分だけ損をしたくはない」と考えています。そんな中で「平和に過ごす」というのはどう可能になるのか。
 ヨハネの手紙二には、「この教えを携えずにあなたがたのところに来る者は、家に入れてはなりません。挨拶してもなりません」とあります。罪と悪に満ちた世にあっては、「挨拶してもならない」という、極端にも思われる知恵はどうしても必要なことです。キリスト者であれば画一的な行動があるわけではありません。むしろ信仰による知恵が、その時々に違う働きとして現れます。どんな人間の善行にも必ず罪が絡み、「サタンでさえ光の天使を装うのです」(2コリント11:14)。だから、今ここで、その都度、信仰的な戦いがあり知恵が必要なのです。
 罪の中にある未完成な世にあって、神の国へ向かって進む私たちだからこそ、今ここでの程度・レベル・バランスを考え、「できる限りで」「できれば」が意味を持ちます。いつも決まった正解があるわけではありません。その時々の程度を弁えた「慎み深さ」「思慮深さ」「知恵」をもって生きます。
 「できれば」とは、無責任な態度でも消極的な態度でもなく、信仰による判断・態度・姿勢です。万物の主にして終わりの時の完成者でもるキリストが、真の平和を完成してくださいます。この方が生きておられ、この方に信頼するから、私たちは今ここで「できる限り」でよいのです。その時点でのレベルを弁えます。それが、信仰による知恵です。「話せば分かる」も結構ですが、「挨拶もしない」という判断・知恵も必要なのです。
 もしも、主がおられなければ、人間は自分で決着を付けなければならないでしょう。しかし、人間は最終的に決着を付けることはできません。主イエスは言われました。「あなた方は世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」。主に信頼する者は負けません。だから、パウロも、「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」と言います。負けるのでなく、主にあって勝つのです。
 もし、「負けるかも知れない」となったら、自分で悪を退治しなければならず、悪を放って置けず、赦しがたくなり、復讐せずにおれなくなります。しかし、十字架の主は、悪に悪を返さず、悪を打ち破られました。復讐できる方が復讐をせず、むしろ憎しみと嘲りを受けて、死なれました。この方が今生きておられるから、私たちの進む道が紆余曲折で、ある程度しか成し得なくても、「できる限り」で「できれば」平和にという道が見えてきます。この地上で、その道を、できる所まで進みたいと思います。