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終わりを目指して

説教要旨(10月25日 朝礼拝より)
ローマの信徒への手紙 15:22-29
牧師 藤盛勇紀

 今もそうかも知れませんが、世界史には先の見えない暗黒時代があります。聖書では、イスラエルが滅び、信仰の拠り所の神殿も失ったバビロン捕囚の時代がまず挙げられます。捕囚時代の預言者ダニエルは、少年期からバビロンの王に仕える者となります。ダニエルは幻や夢を解き明かす能力が与えられていて、主なる神から数々の幻を与えられます。しかしそんなダニエルも全てお見通しというわけではありません。主から示された幻が理解できなくなり、「いったいいつまで」と思い悩み、主に尋ねます。「これらのことの終わりはどうなるのでしょうか」。しかし主は、「ダニエルよ、もう行け」と言われるのです。「もう行きなさい。終わりの時まで、これらのことは封じられる」。この先、終わりがどうなるか分からないまま、終わりの時まで行けというのです。ダニエル書の最後は、主の御言葉で閉じられます、「終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい。時の終わりにあたり、お前に定められている運命に従って、お前は立ち上がるであろう」。
 終わりがどうなるか分からないし、自分は終わりまで見通すことはできない。けれども、主ご自身が終わりを定めていてくださって、その終わりは決して絶望ではなく「憩いの時」であり、倒れてお終いではなく、「立ち上がる時」だというのです。
 神は愛です。そのご計画は愛に基づく計画です。「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」(エレミヤ29:11)。この憐れみに満ちたご計画を持っておられる主に信頼して、恐れずに、終わりを目指して行く。これはキリスト者の根本的な生き方です。そのことを今こそ覚えたいと思います。私たちは、主が備えられた「終わり」を目指す。行く先があるのです。それは人生の終わりでもあり、改めて主とお会いする時でもあり、約束の成就の日、完成の時です。この世で発した問いに対する完全な答えがあり、完全な慰めに満ちた、希望の時なのです。
 復活されたイエス様も改めて弟子たちをお召しになり、何度も「行け」とお命じになりました。そして、「地の果」を目指して行けとお命じになるのです(使徒1:8)。
 パウロは、「イスパニア(スペイン)へ行く」と繰り返し言います。当時の文字通りの地の果てです。天と地が交わるような、はるか遠い先です。キリスト者の生き方には、そのような究極の終わりを目指して突き動かされるようなところがあります。
 パウロはイスパニアを目指しましたが、ローマで果てます。実際に行けたかどうかは問題ではありません。主の約束に信頼し、力づけられ励まされて、遙か先を楽しみに望み見ながら、今を生きている。主によって今生かされている事実が大事なのです。《どこにいても、どこに置かれていても、先を目指しながら行く》という仕方で生きるのです。たとえ暗黒の時代にあっても、主の約束の「終わり」を望み見ています。
 だから、地の果てを目指すと言っても、悲壮感などはありません。むしろ、ゴールに近づくにつれて膨らむ、喜ばしいわくわくする希望の道行きです。主が「地の果て」にいてくださって、主がそこへ行けとお命じになるからです。「ガリラヤへ行け」とお命じになった主は、「そこで私に会うことになる」と言われました。《そこで会おう》と。
 「終わり」には、主との究極的な出会いがあります。今ここでは道なお遠く、常にやっかい事も悩み事もあるけれども、この道の行く先には、完全な安息があり、喜びに満ちた交わりがあるのです。そんな終わりを信じて望み見るので、私たちは今の不完全な時代、不完全な自分を主にお献げしながら行けばよいのです。私たちの人生も、この世も、生きて良し、行って良しです。