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今という時を知る

説教要旨(8月30日 朝礼拝より)
ローマの信徒への手紙 13:11-14
牧師 藤盛勇紀

 「あなたがたは今がどんな時であるかを知っています」とあります。今はどんな時なのでしょうか。キリスト者の生き方は「終末論的」だと言われます。まず「終わりがどんな時か」を知って、「そこに向かう今」をこう生きる、ととらえる生き方です。
 それはスポーツ選手の生活に似ています。明確な目標やゴールを定め、そこから今の生活、今日のメニューまで決めます。中世の修道院には、「メメント・モリ(死を覚えよ)」という標語があったことが知られています。挨拶の言葉であり、食堂の入り口などに掲げられたりして、毎日毎朝、人生の終わりとしての《死から》今日の生き方あるいは人生の深みへと入っていくのです。
 私たちが今生きているのは、当然のことではありません。百年程前には誰一人存在せず、影も形もなかった《無》。なのに今、生きているのです。そして、皆死にます。だから「死」を考えることなしに「生」を考えることはできません。ところがほとんどの人は、普段は自分の「死」を脇に追いやっていて、危うく死にそうな目に遭ったりした時、突然目を覚まされます。死は非現実的・非日常だと思い込んでいるのです。しかし「メメント、モリ」。死は日常です。死を非日常とする生活の方が非現実的なのです。
 「終わりから今」「死から生」という方向で人生を捉えるのは良いのですが、ただ、「終わり」や「死」を自覚すれば今の「生」も受け止められるのか、というと、そう単純ではありません。世の終わりや人生の終わりとしての「死」そのものよりも、むしろ本当に大事な問題は、そこに救いや希望があるのか、ということです。死は、何の希望もない一巻の終わりなのか、それとも、救いがあり希望があるのか。
 聖書は「救いは近づいている」と言います。これが事実、真実であり現実です。「死」を避けていたら「生」が非現実的になりますが、そこに「救い」がなければ、本当に「死」を受け止めることはできません。「救い」がないのに「死」を受け止めようとすると、もう誤魔化すしかないのです。
 もし、確かな「救い」があるなら、《死を打ち破った救い》としての《命》があるなら、それがまた自分にとって真実なら、ようやく死を受け止られるでしょう。だから、本当の最後の問題は、「死」ではなく、《死から命》への救いなのです。
 「あなたがたは今がどんな時であるかを知っています」。《今》は、すでに「救いが到来している今」なのだと知りたいのです。あなたの終わりとしての死、滅びとしての死は、すでにキリストが引き受けてしまわれた。すでにあなたの死の処置は済んでいる。そのような「今」です。
 そのようにしてくださったキリストが《今生きておられる》。そのような今です。さらに、キリストは再び来てくださいます。それを《待って生きる今》。そのような《今》という時です。
 だから、今の私たちの人生は、方向を持つことができます。それでパウロは、具体的なキリスト者の生き方の勧めを語っているわけです。パウロは今の時について、「夜は更け、日は近づいた」と言います。「夜か更けたなら、真っ暗じゃないか」。違います。夜が更けたら、確実に「明るい昼」が来る。今が闇だとしても明るいのです。闇ではなく光。「今」という時を知った人の人生は、《闇ではなく光》、《「死」ではなく、神から来る「命」》です。
 「主イエス・キリストを身にまといなさい」とあります。「死から今」を生きる人は、キリストを着た人です。「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ている」(ガラテヤ3:27)とあります。キリストを着て、罪に対してはすでに死んだ者とされ、新しい命に生かされています。それが《今》の時です。