ホーム | 説教 | 説教(2020年度) | ふさわしい実を結べ

ふさわしい実を結べ

説教要旨(11月8日 朝礼拝より)
マタイによる福音書 3章7-12節
牧師 加藤英徳

 10月31日は宗教改革記念日でした。この運動の肝は、「神様と向き合い神様を地上に宣べ伝えるように」と命じられていた教会が、この世の出来事に影響を受ける事で御命令から離れてしまった(惑わされていた)ところから、改めて神様の方へ向き直ろうとしたという事です。
 言ってみれば地上の教会の悔い改めが宗教改革であり、その出来事を通して誕生したのがこの富士見町教会をはじめとするプロテスタント教会になのです。そんな神様へ向き直ろうとした宗教改革に思いを寄せつつ「今」私たちが住んでいるこの世界に目を向ける時、目の前に広がるのは宗教改革の時代以上に私たちを惑わす出来事ばかりかもしれません。
 与えられた御言葉の時もそうでした。人々は神様の語り掛けではなく周りで起こることなどで惑わされた状態の中におかれていたのです。その一つが「我々の父はアブラハムだ」と言っているファリサイ派・サドカイ派の人々の存在です。彼らはアブラハムが持っている神様との特別な関係が、アブラハムの子孫である自分たちにも影響を与えると考え「アブラハムを通すことでその子孫である自分たちも神様との間で特別になる」と人々に伝えたのです。振り返って、神様と私たちとの間に存在するのは何者も入ることが許されない一対一の生きた関係です。そんな何者も入ることができない一対一の生きた関係に、たとえそれがアブラハムであろうと入り込むなら、神様との生きた関係は台無しになってしまいます。神様との関係がよどんでしまうのです。
 与えられたもう一つの御言葉はロトの姿を通して神様との関係に何者かが入り込みよどんでいく有様を私たちに語りかけてきます。彼はそれまで共に歩んだアブラハムと異なる場所に歩みだすその時、神様を見るのではなく見渡す限りよく潤っていた土地を見、その先にある邪悪に満ちているソドムとゴモラに思いを馳せることで神様との関係をよどませてしまったのです。
 振り返って神様を信じると言いながら目の前の事柄に心見だされよどみを生じさせそれで仕方がないと考えてしまう私たちがいます。であるならそんな私たちの姿はヨハネがファリサイ派・サドカイ派の人々に言ったような「蝮の子」の姿であり「切り倒されて火に投げ込まれ」たとしても当然の状態です。そして神様からの裁きと滅びが待ち構えているだけとも感じられます。
 そんな私たちに、御言葉は御使いを送り御自分との関係をよどませてしまったロトを救い出される、それも躊躇するロトの手をつかんで連れ出してくださる神様の御姿を示してくれます。
 繰り返しになりますが、私たちは神様に対して罪を犯します。それは本来なら「切り倒されて火に投げ込まれ」る状態です。ですが神様はロトを救い出されたように一度でも御自分の方へ向き合った者を切り倒して火に投げ込まれはしません。御自分の方へ向き直るよう繰り返し私たちに働きかけてくださる、引張あげてくださるのです。
 イエス様はそれをお示しになる為地上に降りてこられたのです。そして私たちの手をつかみ御自分の方へ連れ戻してくださる為、あの十字架に向かわれ、死に打勝って復活なさったのです。
 だから洗礼者ヨハネはあのように悔い改めを迫った後、イエス様が示してくださる神様の御恵みを前にしたら自分の告げることはイエス様の履物のひもを解く値打ちもない事だと言ったのです。
 私たちが生活しているこの時代は「蝮の子」で溢れ、私たちを惑わせ苦しめます。ですがそのような中にありながら私たちを見捨てることはない神様からの御恵みはいつも私たちを包んでいます。そして御自分の方へと引き上げてくださいます。その方と向き合う時、この蝮の時代は迷いの時ではありません。恵みの時になのです。