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この世に倣わず

説教要旨(7月19日 朝礼拝より)
ローマの信徒への手紙 12:1-2
牧師 藤盛勇紀

 12章から新たなテーマに入ります。「神の憐れみによって」という一言は、これまで語られた広く深い福音の恵みを受けています。それを根拠に、あなた自身を「聖なる生けにえ」として献げなさいとパウロは勧めます。「聖」とは「神のもの」として取り分けられていること。その自分を献げ、神に用いられて生きようと。それが「あなたがたのなすべき礼拝」だと言います。
 「なすべき」は、口語訳では「なすべき霊的な」、協会共同訳は「理に適った」と訳しました。英語のロジカルです。礼拝には根拠があり理由があり、相応しい形があります。私たちのために神が人となり、低くへりくだって、霊的に死んでいた私たちの救いのための御業を成し遂げられました。しかもその背後に、神がご自分の民と共に歩んだ壮大な歴史があります。救いは、人類に対する神の深い憐れみによる壮大な計画と備えのもとに与えられました。それに応える礼拝も、神とそのみ業に沿った形として現れ出ます。イエスは言われました。「父は、霊と真理をもって礼拝する者を求めておられる」。
 パウロは勧めます。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません」。「倣う」とは、この世と「同じ形になる」ことです。しかし私たちは神の「かたち」に造られました。神と向き合い、呼べば応える関係に生きるものです。ところが人間は自ら神から離れ、神のかたちを失い、自分が何者なのか、なぜ、どう生きるのか、命とは何か、分からなくなってしまいました。霊的な関係・真の命を失い、霊的に死んだのです。
 しかし私たちは礼拝において神のかたちに触れられ、自分をも知ります。神を「父・子・聖霊」として知ったので、礼拝の最後は「父・子・聖霊なる神」をほめたたえる「頌栄」になります。神のかたちに応えるわけです。だからこの世の形にならず、「心を新たにして自分を変えて」いただこうと。「変わる」とは、全く別様に変化すること、新しく造り変えること。しかし神とその救いの御業を知らないまま、世のものとして生きている人は、古い自分に生きる人。それが《新しく》されるのは、神の憐れみによる御力がなし得る、神の新しい創造です。
 「大切なのは、新しく創造されることです」(ガラテヤ6:15)。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(2コリント5:17)。キリストと結ばれるとは、まず古い自分がキリストと共に十字架につけられて「死ぬこと」です。そして、キリストの命に生きるのです。まさに新しい創造です。だから、自分で自分をいくら改良・改善しても新しくなりません。古い自分は死なねばなりません。
 「キリストに結ばれている私」が新しいのです。古い自分はキリストと共にすでに死んでいます。《新しい命》には《新しい生き方》があります。だから、「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるように」なろうというのです。
 これは難しいことではありません。キリストに結ばれ神のものとされた者として、神を礼拝する生活です。神に生かされ、神に用いられ、神が与えてくださるものをいただく人生を歩むことです。
 「心を新たにして」とあります。キリストに結ばれた《新しい自分》を知ったなら、古い自分に悩んだり思い煩って、自分に引っ張られることも捨てられます。パウロは、「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がお与えくださるものを得るために、走ることだ」と言いました。約束のものは前にあるのですから、ただ「前」だけがあります。後戻りや後ろ向きはなく、キリストのものとして、前に生きるのです。それが真の「新しい生活様式」、主と共に生きる人生です。