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隣人を喜ばそう

説教要旨(9月20日 朝礼拝より)
ローマの信徒への手紙 15:1-6
牧師 藤盛勇紀

 今日の御言葉は最初に、「わたしたち強い者は」と言います。強い者と弱い者については、14章の始めから語られている通りですが、教会には常に様々な人がいて、確かに信仰の弱い人もいます。では、「弱さを担う」とはどういうことなのでしょうか?
 「隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです」とあります。互いの徳を高める善いことで「隣人を喜ばせなさい」というのです。これは、あまりにも大きな課題です。それでパウロは、「キリストも」と言います。この方は、「御自分の満足をお求めになりませんでした」。神の国の到来を示すためには、めざましい力を発揮し、奇跡も行いましたが、エルサレムに入っていよいよ救いの業を成し遂げようとした時には、奇跡の力を捨ててしまわれました。
 そして、ついに十字架につけられた時、「御自分のためには」一切何の力も発揮されませんでした。無力なイエスを人々は罵ります。「お前が神の子なら、自分を救ってみろ」。そんな罵り、嘲りの中で、主は人間の弱さ、罪汚れを全て担い、神の裁きを全てお引き受けになったのです。救われなければならい《弱い私たち》への裁きを全て引き受けてくださいました。このキリストの恵みを知ったなら、「弱い者の弱さを担う」とは単に弱い人のお世話のようなことではないと分かります。本当に人を生かし、真の命で本当に人を喜ばせることなのです。
 「わたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです」。私たちはすでに救いに与っていますが、まだ完成していない《道の途上》を歩んでいます。けれども確かな「希望」があります。5章に、「この希望は私たちを欺くことがありません」とありました。その根拠は「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」。そして、「実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。…私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました」。
 「神の愛」が聖霊によって私たちに注がれているから、「希望」は無駄ではないと知っています。だから今、「忍耐と慰め」を学ぶことができるのです。パウロは、「忍耐と慰めの神が…」と言いますが、これは希望に基づく祈りです。「忍耐と慰めの神」の希望があるから、私たちも《弱さを担う可能性》が開かれるのでしょう。弱い私たちを、「忍耐と慰めの神」が忍耐してくださっているから、安心して大胆に信頼して委ねることができます。
 忍耐の神は、人間の罪を忍耐し、その忍耐の末、人間に下すべき裁きを御子に下し、私たちには命が与えられました。それはあり得ない交換でした。しかし、あり得ないことを神はなさったのです。
 この忍耐と慰めの神の恵みを知らないことは、なんともったいないことでしょう。パウロは「忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように」と祈ります。
 私たちの神が「忍耐と慰めの神」であられるから、私たちは共に祈り求めます。忍耐と慰めの神に信頼し続け、神と共に生きるのです。それは、礼拝と祈りと、そこに人を招く伝道です。弱い者の弱さを担うための行いや実践は世に無数にあります。しかし《祈りと礼拝と伝道》は教会にしかなく、キリストにのみある可能性です。この方に結ばれて神の命に生きること、それ以上の善いことはなく、それ以上に人を喜ばせることもありません。だからパロのように祈り願います。それが、新しい命に生かされた新しい人の共同体の姿なのです。