希望の源

説教要旨(10月4日 朝礼拝より)
ローマの信徒への手紙 15:7-13
牧師 藤盛勇紀

 「わたしは言う」。信仰生活上の勧めを語ってきたパウロは、改めて言います。「キリストは神の真実を現すために、割礼のある者たちに仕える者となりました」「それは、先祖たちに対する約束を確証されるためであり、異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです」と。ちょっとつながりが分かりにくいと思います。
 そして旧約聖書のいくつかの箇所から、異邦人について語られている言葉が引用されます。「異邦人よ、主の民と共に喜べ」、「エッサイの根から芽が現れ、異邦人を治めるために立ち上がる。異邦人は彼に望みをかける」・・・。
 「エッサイ」はダビデ王の父。その子ダビデの子孫から真の王キリストが現れるとの預言です。キリストの到来のことなので、クリスマスにもよく読まれます。そして、「異邦人は、彼に望みをかける」のだと。神の民であるユダヤ人と異邦人は、どう関係するのでしょうか?
 ユダヤ人と異邦人の違いの一つは「希望」を持つ民かどうかです。異邦人は、ユダヤ人の王に「望みをかける」というのです。マタイ福音書のクリスマスの物語、いわゆる「東方の博士たち」を思い起こさせます。真の王キリストは、ユダヤの小さな村でひっそりとお生まれになりました。それを東方の国の学者たちが察知し、はるばるユダヤにやって来ます。彼らは異邦人、私たちも異邦人。しかし、異邦人もキリストに結ばれて神の民とされます。パウロは11章で《オリーブの枝》のたとえを語りました。私たち異邦人は、何の見込みもない希望無き野生のオリーブ。ところが、神の畑で育ったオリーブ(ユダヤ人・イスラエル)は折り取られてしまい、野生の枝が接ぎ木されました。それで、私たちは異邦人でありながら、イスラエルの民に与えられた神の憐れみと約束とを受け継いでいるのです。
 接ぎ木された者は、何が変わったのか? 「希望」を持って生きる者となったのです。「希望なんか、誰だって持てるだろう」と思われるかもしれません。しかし、本当にそうでしょうか?
 パウロはギリシアの哲学者たちとも議論しましたが、異邦人は希望を持たないということをよく知っていました。実際、ギリシアでも東洋でも希望が価値を持ったことはなく、不条理に満ちた現実をどう諦めて受け入れるかに知恵を用いました。希望を持つとは人の成熟ではなく、むしろ未熟さを意味しました。
 万物の創造主なる神が、世界とその歴史を支配しておられるという信仰がなければ、「希望」と言っても、根拠のない空しいものにならざるを得ません。この歴史の果てに完全なものが確かにあって、命も単に儚いものではなく、完成が約束されているのでなければ、希望は空しくなります。
 これから秋が深まって行きますが、秋の深まりは、何か「落ちていく」ようなわびしさがあります。一本松とススキの穂、そして遠くに沈む夕日のイメージで、「もう、それでよいではないか」と思ってしまう心があるわけです。自然の中に埋もれると、もはや歴史には意味がありません。希望が語れないのです。
 しかし、万物の造り主なる神がおられるならどうでしょう。ここで御言葉が示しているのは、言わば《落ちていくしかない異邦人のために、神御自身がキリストにおいて、立ち上がる》というヴィジョンです。「神が」「希望の源」なのです。
 実りの秋ですが、「このコロナ禍の中、何が望めるのだろうか」と思う人もいるでしょう。秋が深まれば不安も深まるかもしれません。しかし、神は望み無き者の所に来られる方です。「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように」。