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野生のオリーブ

説教要旨(6月21日 朝礼拝より)
ローマの信徒への手紙 11:17-24
牧師 藤盛勇紀

 パウロは、神の畑で育ったオリーブと、接ぎ木された野生のオリーブのたとえを語ります。神に選ばれた民イスラエルと、選びの外にあったはずの異邦人の救いの、不思議な関係です。
 ここで、よく注意すべきことがあります。それは、接ぎ木された枝である私たちキリスト者のことだけが語られているのではなく、折り取られた枝であるイスラエルが、傍らに置かれているということです。だからパウロは、イスラエルは退けられたのではない、倒れてしまったのでもない「決してそうではない!」と繰り返し言うのです。
 イスラエルの存在とその歴史は、単に数奇な運命を辿った民族というだけでなく、現代のイスラエルの問題も、ただ国際政治的な視点から「やっかいな問題だ」と見るのでもなく、聖書からどう見るか、神の救いの御心との関係でどう見るかが問われています。イエス・キリストが到来した後、イスラエルの民は信仰的に無用・無意味になったわけではないのです。
 異邦人が皆救いに与るという希望をパウロは語りますが、その時までイスラエルも存在し続けます。様々な問題を抱えながらも、私たちは自分の傍らに常にイスラエルを見ていなければいけません。
 なぜ、神は「折り取られた枝」イスラエルを世界に残されるのでしょうか? 旧約聖書は、神から離反した人間に対して神がどのように係わって来られたかの歴史であり、またイスラエルの歴史です。イスラエルの選びとその罪過や悲惨、立ち直っては堕ちる浮き沈みの歴史。イエス・キリストはその歴史の中に生まれました。そして、あの信仰の父アブラハムに約束された祝福「すべての国民は、あなたによって祝福に入る」との約束が、じつに不思議な仕方で実現されているのです。
 パウロはこの11章の終わりにこう言っています。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。誰が、神の定めを極め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」。キリストに結ばれた者はこの言葉に共感し、神を讃えずにはいられません。この思いを抱く者は、私たちを新しい命へと召してくださる主なる神に、感謝と喜びをもって自ら従って生きたいと思います。それ以外の生き方は生まれないのではないでしょうか。
 私たちが傍らにイスラエルを見ているならば、どうなるでしょう。人間の悲惨と不条理を見ながら、不思議にも生かされている自分を改めて発見して、外からの強制ではなく、自らあるべき方向に立ち帰って生きるようになるのではないでしょうか。
 だからパウロは言うのです、「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい」。そして「神の慈しみにとどまるかぎり、あなたがたに対しては慈しみがあるのです」と。神の慈しみは、私たちが自らそれを知り、自らそこに「とどまるかぎり」、あるのです。もし、神は愛だ慈しみだと口では言いながら、憐れまれ愛された者として生きていないとしたら、なんと空しいことでしょう。私たちはイスラエルの歴史を見ながら、「慈しみ」の方に「どどまる」のです。
 パウロはこう言いました。神の言葉は「然り」と同時に「否」となったのではない、キリストにおいては「然り」だけが実現したのだと(2コリント1章)。「否」はキリストが引き受けてしまわれた、だから慈しみの方に留まるのです。神は、「そっちではなく、こっちだ」「死と滅びではなく命を得よ」と招いてくださっています。
 私たちは野生のオリーブだったのに、憐れみとを受け、祝福された神の子として生きるなら、傍らにあるイスラエルが、パウロが言う「ねたみ」を起こして、真の命を認めるようになるのではないでしょうか。これは歴史の終わりまで見通すような壮大な希望です。全世界の歴史を包む神の慈しみに基づいた、壮大な希望なのです。