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私も日本人ですが

説教要旨(5月24日 朝礼拝より)
ローマの信徒への手紙 11:1-10
牧師 藤盛勇紀

 パウロは9~11章で、非常に大きなスケールのテーマを扱っています。イスラエルの救いと異邦人の救い、世界大の問題です。しかし、この箇所で預言者エリヤが孤立感・虚無感に囚われた時のピソードに触れます。結論から言えば、その孤立感・虚無感は思い違いであり、勝手な思い込みなのです。
 イスラエルの民は熱心に神とその義を求め、救いを求めました。ところがイスラエルはつまづき、真剣に救いを求めることもしなかった異邦人が、神の儀と救いに与ってしまった。この皮肉なまでの不思議。それが9章から語られていました。そうした文脈の中でパウロは問います。「では、尋ねよう。神は御自分の民を退けられたのであろうか」。「決してそうではない」とパウロは断言します。なぜそう言えるのか。それは、「わたしもイスラエル人」だからだと。パウロはまさに《典型的なイスラエル人》。神の律法と義を追い求めて必死に突っ走りました。しかし神の義を得られなかった。真剣に努力し、誰よりも熱心に求め、自分で自分を律して生きてきた。なのに、救いを掴むことができなかった。私もそんなイスラエル人なのだ、と言うのです。
 パウロは、《イスラエル人》でありしかも《キリスト者》である自分の存在の不思議に驚いています。このような自分にしてくださった神に驚いているのです。パウロは生粋のイスラエル人なので、血筋を辿れば信仰の父アブラハムに遡ります。しかし、自分の血肉のルーツを辿って驚いているのではありません。そんな水平次元のことではなく、目を垂直次元に上げて、万物を存在させている神に驚いているのです。「私もイスラエル人」なのだという事実と、その自分が《救われてある》という事実を、神の目から、「神の選び」から見ています。
 「神の選び」と言ってもいわゆる「選民意識」ではありません。むしろ人間の意識から全く自由な「神の選び」です。私がこのように存在し、しかも救われた者、神の子とされている、それはただ神の《まったく自由な恵みなのだ》と。
 この神の恵みの中で、自分も現にイスラエル人だという事実を受け取り直すのです。ここからパウロが知ったことは、「神は、前もって知っておられた御自分の民を退けたりなさいませんでした」という事実です。神は決して御自分の民を捨てたのではない。だから、あの時のエリヤのように《誤解》をしてはいけないのです。《勘違い》してはいけない、《早とちり》して《独り決め》してはいけない、神にはご計画があるのだ。
 エリヤは、「わたし一人だけが残りました」「彼らはわたしの命をも奪おうとねらっています」と繰り返しています。まさに「繰り言」、独り勝手な愚痴です。
 しかし、そんなエリヤに対して主は何と告げられたか。「わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた」。身の周りの現実を見れば《私一人》。しかし、神から見るなら《七千人》がいるではないか、というのです。
 パウロはここで「恵みによって選ばれた」という言い方をしています。「恵みによって」とは、神の愛によって、その自由によってです。つまり、「私たちの内の何かによって」ではないのです。神が《一方的にくださった》のです。
 この「恵みによって」見るならば、「私は独りだ」としか見えなかった現実が、実は私の勝手な思い込みだったと分かります。 神は7千人を残された。自分もその数に入れられている。これは自分が頑張った結果や報酬や成果ではない《恵み》。この発見は《福音》です。これが神の恵みの選びです。
 パウロが「私もイスラエル人で」と驚いたように、「私も日本人(◯◯人)」でありながら、キリストのものとされ、神の子とされ、神の民の一員として選ばれている。なんと驚くべき恵みでしょうか。