敗北から

説教要旨(9月27日 朝礼拝より)
サムエル記上 4:1b-22
伝道師 杉山悠世

 イスラエルの民はこの戦いの敗因を神の御旨として受け取りました。自分たちの技術や力量ではなく、「神が勝利に導こうとされなかったから」「負けることを望まれたから」だと判断しました。イスラエルの長老たちは、敗因を神とイスラエルの関係にあると考えたのです。
 4章でサムエルを通して預言された通り、神はイスラエルの罪を見過ごされなかったのです。同時に、イスラエルが罪の中にあるままにされることをお望みにならなかった。たびたび、彼らの先祖が神の契約を破ってもイスラエルを救われたのと同様に。それは、敗北によって人間が正しく神に向きなおるようにするためです。
 人間は心のどこかで神を信頼できない思いがあるから、神の全能を否定しているから、あらゆるものを神に見立てて頼ろうとします。それは偶像礼拝です。信頼すべき方を見失って、気休めとして神の箱を用いてしまったのです。「主なる神にわたしたちのただ中に来ていただきたい」と願うことは、それ自体決して悪いことではありません。ただイスラエルの民は、まじないのようにして神の箱そのものに神が捉えられているかのように扱ったのです。神の箱は大切なものです。けれども、象徴であって神と同等ではありません。神ご自身が箱に拘束されているわけではありません。神の臨在は場所や物によって制限されません。
 戦利品として奪われた神の箱は、ペリシテ人の神、ダゴンの神殿へと奪い去られました。屈辱的な出来事です。けれども、略奪の出来事はイスラエルの神の敗北では終わりませんでした。5-6章で、神の箱が不思議な仕方でイスラエルのもとへと戻ってくる事が語られています。神の栄光は、イスラエルから取り去られたように思われました。イスラエルは神に見捨てられてしまったように思われました。けれどもそうではなかったのです。
 キリストも私たちのために圧倒的敗北を味わわれました。私たちが味わうべき苦痛、罪に対する私たちの敗北でした。私たちに代わって神の御子が、人々が思い描く栄光とは程遠い、傷みと屈辱を味わい、苦しみのどん底に追いやられたのです。
 けれども、それは敗北を通して再び、人間が新しい歩みへと招かれるためでした。私たちも、キリストの敗北を通して、新しい救いの道へと招かれています。神の栄光とは神に出会うとこだからです。キリストを通して神と出会い、神との正しくあるべき関係に立ち返るためです
 キリストに出会って救われた私たちは、どのようにして神の栄光をあらわすことができるのでしょうか。クリスチャンだからといって、決して清廉潔白で、誰からも尊敬されるような生き方が出来るわけではありません。言葉によって神の栄光を、救われた喜びを言い表す人もいれば、奉仕などの行いによってあらわす人もいます。もちろん、どちらでもない人もいらっしゃるでしょう。その人は、キリストを信じて受け入れる、つまり信仰に導かれたことによって神の栄光をあらわしているのです。
 クリスチャンが、どんな時にも希望を持って生きるのは決して天国を目指すためではありません。世間一般のかたは、クリスチャンは死んだら天国に行けると信じている人たちだと思っているかもしれませんが、そうではないのです。キリストによって神に出会った者は、永遠の救いの約束、永遠の喜びを知っているのです。
 私たちが喜んで受け入れられる時だけではなく、絶望する中にあっても、私たちは神を知ることが出来るのです。私たちの想像を遥かに超えた大きな流れの中で、私たちの間で働かれる神の御手に身を委ねましょう。神の霊が私たちのうちにあって、正しく希望の道を帰るべき場所を目指して歩んでゆくことが出来るように。