ホーム | 説教 | 説教(2020年度) | 祭司の務め

祭司の務め

説教要旨(5月10日 朝礼拝より)
サムエル記上 2:22-36
伝道師 杉山悠世

 ペトロの手紙Ⅰの2章も祭司について語っています。しかし、ここで語られているのはこれまでの祭司ではありません。新しい祭司、キリストによってもたらされた新しい時代の聖なる祭司について語っているのです。では、新しい祭司はどのようにしてたてられたのでしょうか。それは、十字架にお係になった主イエスによってです。マタイによる福音書27:51は「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」た、とあります。イエス・キリストの死と復活によって、至聖所という大祭司しか入れない聖所の奥の垂れ幕がさけ、神と人との隔たりが取り去られたのです。そればかりか、真の大祭司イエス・キリストによって主イエスを信じる者一人ひとりが新しい祭司としての地位を与えられたのです。異邦人、つまり、生まれながらのイスラエル人ではないわたしたちも神の民とされていることが告げられています。教会の年間聖句ヘブライ人への手紙4章16節に「憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」とあるように、イエス・キリストによって私たちは神のみ前に出てゆくことがゆるされています。それは、ある意味で私たちに与えられた権利ということができるでしょう。同時に、権利には責任が伴います。新しい時代の祭司である私たち一人ひとりの、あるいは教会の責任は「神の御心を知ろうとすること」そして、御心に従って宣教することです。そのように御旨に従う生き方を端的に言い表すならば、「従順である」ということができます。    
 従順とは神の前に従順であるという事です。外的な力によって強制されるものではありません。父なる神と主イエスの関係において、従順という事柄が表れています。主イエスは時には病をいやし、人々に寄り添いながら、時には人々が驚くような熱意と力強さをもって宣教の業に尽力されました。それは決して自己実現や自分で立てた目標のためではなく、どこまでも父なる神の御声に向かって歩まれたのです。それが神に足して従順である者の姿です。神の人はエリにサムエル記上2:30節のように言います。
 神はエリの息子たちが自分へのささげものを横取りした事に怒っておられるのではなく、怒りはささげものをないがしろにした事にむけられているのです。礼拝において特にささげものによってイスラエルの民が贖われる、つまり罪を赦されて神との正しい関係の中で生きるという事がささげものの目的です。けれども、彼らはささげものが神にささげられる前に奪ってしましました。回復されるはずであった神と民との関係を祭司である彼らが断ち切ってしまったのです。ささげものをないがしろにするという事は、神をないがしろにするという事です。また神との親しい交わりを、関係の回復を求めている民をないがしろにするという事です。エリの息子たちは自分たちが神であるかのような振る舞いをしていたのです。彼らのために代々続いたエリの家系は祭司の職から遠ざけられました。しかし、祭司の家系が衰退してもイスラエルへの神の恵みは失われません。祭司、預言者として立てられたサムエルによって新しい時代へと導かれるのです。
 
 今日、私たちには犠牲の供え物は必要ありません。私たちの罪は、キリストただお一人によって贖われたからです。真の神の子、救い主によって罪の赦しを得えているからです。そして、キリストに結ばれた私たち一人ひとりは聖霊の注ぎを与えられています。今こそ、世の中の様々な声に惑わされず、新しい祭司として主の声に耳を澄ませましょう。それ俺の場にあって、私たちを恵みと平安へと招いてくださる主に信頼して、主の栄光を証しする務めに邁進してまいりましょう。