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命のパンをいただく

説教要旨(8月9日 朝礼拝より)
ヨハネによる福音書 第6章41-51節
牧師 加藤英徳

 与えられた御言葉でイエス様は、御自分こそが天から降って来た生きたパンだと、そしてその肉を食べることで、人は永遠に生きると宣言されます。
 語られている内容を字句通りに受け止めた時、私たちの脳裏に広がる光景は正直に言ってあまり気持ちの良くはありませんが、イエス様の御発言や不思議な業等は、私たちの予測をはるかに超えた業であり、同じ土俵で向き合い論じることが出来ない類の事になります。
 議論の論点がずれた状態で話が進められていく時、「またあいつか」とか「何か訳のわからないことを言っている」と取り合わないか、或いは徹底的に対立するか、私たちは二通りの対応のどちらかを取ることになります。
 イエス様の御語りを耳にしたユダヤ人は後者の反応でした。御言葉からわかることですが、このユダヤ人たちは彼らなりに律法を命がけで実践をしていたそのような人々でしたが、彼らのつぶやきの真ん中に立つイエス様は、つぶやいた彼らの理解によるなら彼らのように日々聖書と向き合い実践しようとした形跡がありません。加えてその素性も特別ではありません。
 にもかかわらず、不思議な業をお示しになり、その結果多くの人がこれまでとは異なる何かをイエス様に求め始めている。
 彼らにとってこの状況は知らん顔を決め込める状態ではありません。だから彼らは「わたしは天から降ってきたパンである」とお語りになるイエス様に向かって「どうして今、『わたしは天から降って来た』などというのか」と不平を告げイエス様のお招きを拒んだのです。
 振り返って、私たちもイエス様からのお招きに一度は応えながらも自分の考えを一番に自分にしがみつこうとします。イエス様の声を聴きながら「どうして今」と自らの中に閉じ籠り聞こえてくる呼びかけに抵抗もします。まるでその姿はあのユダヤ人と同じです。
 神の御子に向かってつぶやき、その呼びかけから逃れようとする姿は、神様がどれほどまでに私を大切に思ってくださっているのかを理解していないことから引き起こされるのでしょうし、そのような思いを持つのは私たちの神様への飢えがそうさせているからかもしれません。
 そんな私たちの神様への飢えをイエス様は知っておられます。だから「御自分を食べるならば、その人は永遠に生きる」とお語りくださり、御自分を命のパンとして食べるようにそして永遠の命を得るようにとお告げになるのです。
 ところでこの食べると言う行為は自発的な願いから起こるものですが、病にかかった時などに感じさせられますが、それなりに体力が求められます。
 御自分を命のパンとして食べるようにとイエス様から告げられている私たちは、神様を拒み死に至る絶望の中に落ち込こみそこから自分の力だけでは抜け出せない状態です。それは神様を前にして体力のない状態です。
 神様との関係に飢え体力もなく与えてくださった命のパンを自力で食べることすらできないのが私たちです。イエス様はそんな私たちの陥っている悪循環を知っておられます。
 だからイエス様はあの十字架にお架かりになり私たちが命のパンのほうを向けるようお示しになるのです。そして体力のない私たちが、その命のパンとして食べられるように私たちを支えてくださるのです。
イエス様を命のパンとして私たちが頂けるのは私たちの努力や力ではありません。すべてイエス様の御力です。その御力のおかげで私たちはイエス様を頂くことが出来き、命のパンとして頂いたイエス様からの御恵みは、そこから先、朽ちることなく永遠に私たちと共にあり私たちの中であふれ出すのです。