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彼らの罪が世の富に

説教要旨(6月7日 朝礼拝より)
ローマの信徒への手紙 11:11-16
牧師 藤盛勇紀

 人間にはどうしても、ある程度の長い時や歴史を経験しなければ分からない真理があります。「彼ら(ユダヤ人・イスラエル)の罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば」。これは不思議な言葉です。神に選ばれた神の民だったはずのイスラエルも罪に落ち悲惨を経験しました。その【彼らの罪】が、なぜ【世の富】となるというのでしょうか? パウロが語るこの言葉を理解するためにも、具体的な歴史が分かる必要があります。
 先輩の牧師たちと一緒に台湾を訪ねた時、たまたま出会った台湾のお年寄りたちとこちらの高齢の牧師たちが、まるで数十年ぶりに再開した兄弟のように喜んで語り合っているのが不思議でした。その時私はあの詩編133編の美しい言葉を思い出しました。「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」。これはダビデの詩ですが、ダビデは人類の悲惨を知っています。「兄弟が共に座る」ことが如何に不可能なことであるかを身を以て知っています。だからこそ、万民の主なる神の赦しと祝福のもとに「兄弟が共に座っている」というヴィジョンを、上から(神から)与えられる希望として見ているのです。
 神の民イスラエルは、自分たちの救いのために来られた神の御子を受け入れず、血祭りに上げて殺してしまう究極の悲惨を現してしまいます。一方、神の民ではなかった異邦人が、ただ「恵み」によって神の赦しと命をいただいて、神の子として生かされることになりました。求めもしなかった異邦人が、タダで救いに与ったのです。
 では頑なにされてしまったイスラエルはどうなるのか。その問題をパウロはずっと語って来ているのですが、ここでまた面白い、不思議なことを言います。「彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです」。そしてパウロ自身も「何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです」と言います。なぜわざわざ「ねたみ」を起こさせるのでしょうか?
 気前の良すぎる神のなさりようを見て、人は「なんであんなヤツらに!」と妬ましく思います。イエス様は「ぶどう園の労働者のたとえ」で、神の気前の良すぎる取り扱いと人の妬みを語り、こうおっしゃいました。「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。…それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」。神はあまりにも気前が良すぎるので、人の目には不公平に見え、妬みを起こします。一日中働いた者と同じ賃金を、ほとんど働かなかった者に支払うとは!
 神はそんな頑なな者の首を強引に曲げようとはなさいません。頑なな人間自身が、自ら体を翻して神に立ち帰るように、神は彼らの傍らで、「これ見よがし」になさって、妬みを起こさせます。そこで人は「なぜ神はこんな風にするのだろう?」と考える。
 聖書は、神は「熱情の神」「妬む神」だと言います。人に妬みを起こさせ、それを通して、神ご自身の「妬むほどの愛」が分かるようになさるのです。
 人類の歴史、世界史は、苦悩や不条理の経験に満ちています。それは、落ちてしまった私たちが、神に立ち帰り、神の不思議な愛と恵みを知る経験の場です。言わば、神の愛の教育の現場です。だから、神の愛と恵みと人間の罪の究極の出来事である十字架から見て初めて、人間の苦難や悲惨も無駄でなく、無意味でもなかったと「分かる」道が開かれるのでしょう。
 パウロはこう言います。「まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう」。「彼らが皆救いにあずかる」というこの究極の希望も、上から与えられたヴィジョンであり、神ご自身の希望なのだと、分かってくるのです。