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天に座す我ら

説教要旨(4月22日 朝礼拝より)
エフェソの信徒への手紙 2:1-6
牧師 藤盛勇紀

 先日亡くなった姉妹の人柄について、「少女パレアナ」のようだと表現されたことを葬儀の中で紹介しました。辛い経験があっても、そこから良いこと明るいことを発想し、いつでも喜ぶ、という生き方です。11歳で孤児となって、気難しい叔母さんに引き取られたパレアナは、どんな時にもどんな事からでも、喜ぶことを捜し出す「遊び」をします。それが周りの人々をも明るくし、いつしか叔母さんの頑な心をも溶かし、町中の人たちもその遊びに参加するのです。誰にでも言うに言われぬ辛い経験があり、それぞれに抱えている辛さや重荷があります。そうした現実を乗り越える、一つの知恵が「喜ぶ遊び」なのです。
 パウロが語る一見深刻な言葉にも、どことなくユーモラスな感じがあります。たとえば、「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」「人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び…」(2コリント4章、6章)。
 私たちを脅かす力、死に晒す力や、悲しませる出来事が、私たちの目の前に、死神のカードのように置かれていく。しかし、それらを次々とひっくり返して行くのです。「はい、残念でした、生きています」「はい、残念でした、喜んでます」。悲しみや苦しみを、次々とひっくり返すゲームです。
 私たちキリスト者は、神の前に死んでいたのに、キリストに結ばれて新たに生まれさせていただいた者であり、天に属する新人類、天に国籍を持つ者、天の故郷を持つ者です。そして、天からこの地上に派遣されているのです。
 「憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです―― キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました」。
 私たちはすでに、キリストと共に天の王座に着かせていただいています。この事実が見えるでしょうか? 目には見えません。目には見えないからこそ見るべきなのです。パウロは言います、「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」(2コリント4:18)。信仰によって見ているものこそ、真の意味で客観的事実です。肉の目の感覚など問題ではありません。御言葉が示している事実こそ、私たちの確認べき事実、信仰による事実です。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(ヘブライ11:1)。
 私たちが身をもって感じることは、まさに体の実感であって、その感覚は実は混乱し、倒錯し、欺かれた「肉」の感覚です。私たちはそれを、ひっくり返せるのです。
 パレアナはある日交通事故に遭い、脊椎を損傷して下半身不随になります。それでも決して笑顔を絶やさず、いろいろな嬉しい話をします。ある時、叔母さんは気づきます。パレアナが話す嬉しい話はすべて将来のことだと。つまり、いま何か良いことがあったから嬉しいのではなくて、まだ見ぬ先のことを見て、喜んでいるのです。
 私たちも、そのような者とされています。「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいた」、なのにキリストによって、共に神の子として天の王座に着かせていただきました。この信仰による事実から、地上の出来事や人生を見る事ができるのです。主の御言葉と思いによって、否定的なものをひっくり返し、大胆に祈り、喜んで生きることができるのです。