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今週の説教

神の恵みは現れる

説教要旨(4月29日 朝礼拝より)
エフェソの信徒への手紙 2:7-10
牧師 藤盛勇紀

 キリスト者は、イエス・キリストによって救われたと信じているわけですが、案外「では、救われてどうなるのか」ということについては曖昧だったり、あまり考えなかったりするのではないでしょうか。問題は、「救われて、どうなの?」ということ。何のために救われて生きるのか。まさか、「天国行きの切符はもらったので、あとはお迎えが来るのを待つだけ」ではないでしょうし、まだ死んでいないから仕方なく生きているだけ、でもないでしょう。
 では何なのでしょうか。パウロは言います、「神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです」。
 「来たるべき世」とは、いわゆる「来世」や「天国」のことではありません。代々の歴史、次々と巡り来る時代のことです。つまり、「神は、来る世々において、その限りなく豊かな恵みを、私たちの上に明らかに現される」というのです。
 ここでも神の恵みの豊かさ深さが強調されていますが、それは神の「慈しみ」です。神の慈しみから滲み出て、溢れ出て、私たちの上にあふれ、現れ出るのです。この「慈しみ」は、神のfavor、《人の良さ》です。神は底抜けのお人良し、想像を絶する人の良さです。神の恵みとは、その底抜けの人のよさから溢れ出る恵みなのです。
 それを、私たちはこの身に受けていますから、私たちは身をもって証しするのです。私たちが救われたのは、まさにそのためです。私たちを通して、神の恵みが証しされる。いや、限りなく豊かな恵みの神、底抜けに人のよい神、慈しみに満ちた神が、私たちを通して現されるのです。私たちは、神の似姿に、神のかたちに造られた者であり、神の子なのですから。
 しかも、それが「来るべき代々に対して」、そうされるというのですから、一人ひとりの人生に限らず、神の民として、神の民の歴史を通して現されるということでもあります。それが神の民としての教会の、この世における光栄ある使命です。
 私たちを通して現されるのは、「神の恵み」です。だから、パウロはここで改めて確認するように言います、「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです」。
 私たちは「自分の信仰」を「行い」にしてしまっていることがあります。「信仰を誇る」ということさえ、ありがちなのです。しかし、「行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです」。
 それをパウロは10節でこう言います、「わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです」。
 「神に造られたもの」。これは単なる被造物でなく、「神の作品」という言葉です。私たちが「神の作品」と言われているのは、「キリスト・イエスにおいて造られた」、新しい創造のことを言っているのです。神から離れて霊的に死んでいた私たちを、神はキリストにおいて新しく創造してくださり、新しい命に生きる「新人類」とされた。ここに、私たちが救われたことの重大な意味があります。
 神の途方もない「慈しみ」「限りなく豊かな恵み」は、私たちに現されます。神は、私たちを通してご自身の恵みを現すことになさった。それこそ、「神が前もって準備してくださった善い業」です。神は私たちを用いてそうなさる。私たちはそのような「神の作品」です。神ご自身の作品ですから、作者である神が表そう、伝えようと願うことは、必ず現されるのです。