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神を神として賛美する

説教要旨(5月13日 朝礼拝より)
ヤコブの手紙 1:19-21
伝道師 新佐依子

 昨年ある本で、10代の少年たちの非常に残酷な暴行によって殺された、16歳の少年についての話を読みました。そこには被害者の少年のお母さんの思いが書かれていたのですが、あまりの理不尽さに、読んでいる私も怒りに震えるほどでした。
 しかし聖書は言います、「怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです」と。確かに聖書の言うことは分かります。まことに義なる御方は神おひとりですから、不義なるものに対して怒りを覚えてよいのは神様だけです。それなのに私たちが、不当だと感じるものに対して怒りを覚えるのは「自分は正しい」という思いがあるからです。それは自分が神になって物事を裁いていることに他なりません。聖書は、自分が神になって義・不義を裁いてはいけない、と言っているのです。
 しかし私はここでひとつ思うのです。あの、大切な子供を酷い形で殺されたお母さんの前で、私たちは「怒ってはいけません。あなたの怒りは神の義を実現しないからです」などと言えるでしょうか。そんなことを言われたら、あのお母さんはもっと辛い思いをすることになるでしょう。彼女にとって、この聖書の御言葉は「良き音ずれ」ではないように思えるのです。いったいこのことはどう考えればいいのでしょう。
 これはとても難しい問題です。しかしひとつ言えることは、たとえどれほど激しい義憤を露わにしても、それで私たちに平安が訪れるわけではない、ということです。今日は旧約聖書から『コヘレトの言葉』8:9-14をお読みしました。ここでは、「人は神を畏れるからこそ幸福になる」と言われています。条理がしっかりと立つことで幸福になるのではありません。神を畏れることで幸福になるのです。コヘレト8:9-14はこの世の不条理をちゃんと見ています。この世では、怒りを覚えずにいられないような不条理なことが起こっていると言っているのです。にもかかわらず、私たちは神を畏れることで幸福になると言います。
 今日の旧約聖書の箇所として、もうひとつ『詩編』22:2-4を挙げたいと思います。これはイエス様が十字架の上で叫ばれた言葉として有名な箇所です。「わが神、わが神、なぜ…」神様と等しい御方であるイエス様、神の御子であられるイエス様が、父なる神様から完全に断絶されたところで、この叫びを叫ばれました。詩編22編は「あなたは私を見捨てられた。いくら呼び求めても答えてはくださらない。祈っても祈っても、祈りは聞かれない」と言います。しかしその後、続けて「《でも》あなたは聖所に在し、イスラエルの賛美を受ける御方だ」と言っているのです。
 「祈っても祈っても聞かれない。でもあなたは賛美されるべき神だ。」これこそが私たちに確かさをもたらしてくれる信仰です。私たちが神様を賛美するのは、神様が私たちの祈りを聞いてくれるからではありません。私たちの祈りが聞かれようが聞かれまいが、神様は神であり、唯一義なる御方であり、唯一賛美されるべき御方です。だから私たちは賛美するのです。そして、私たちはあのイエス様の十字架によって、この義なる神・賛美されるべき神の子供とされているということこそが、私たちの人生を確かなものとしてくれるのです。
 祈っても祈っても聞かれないような不条理というのは実際にあります。しかし神様は私たちの祈りを無視しておられるのではありません。黙っておられるのです。神様は、愛しい我が子の「お父ちゃん、助けて!」と泣き叫ぶ声を無視されるような御方ではありません。ただ、まことの義を知る御方から見て、今は沈黙が必要だと判断して黙っておられるのです。私たちの父なる神様は、今も沈黙の向こうでまことの義のために必要なことを為しておられます。神様の子供である私たちは、それを信じることができます。「御言葉を受け入れなさい。」それこそが、不条理の世にあって平安に生きることを可能にしてくれるのです。 
 






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