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新しい人を着る

説教要旨(8月12日 朝礼拝より)
エフェソの信徒への手紙 4:17-24
牧師 藤盛勇紀

 今日の御言葉の最後に、「真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません」とありますが、この訳はかなりの意訳です。今日の箇所はまるで、「ふしだらな生活をやめて、清く正しい生活を送れ」と言っているように聞こえます。しかし、清く正し生活をせよと命じたり、求めたりはしていません。そうではなく、キリストに結ばれた私たちは何を知ったのか、私たちはどういう者とされたのか、つまり私たちの根本的なアイデンティティーを語っているのです。私たちは、「古い人を脱ぎ捨て」、「新しい人を身につけ」たのだ、それがイエスにある真理だというのです。
 ですから、「清く正しく生活をしなければいけない」などといった、道徳のお題目のようなことではなく、《キリストにある命》のことを語っているのです。キリスト者は、「古い人」を脱いで「新しい人」を着た者です。しかも、その「新しい人」とは、神による《新しい創造》です。
 パウロは、このイエスにある真理に心を向けようとしています。ヘブライ人への手紙が、「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」走ろう、と勧めている言葉を思い起こさせます。私たちは、自分が見つめているもの似てきます。ヨハネの手紙一3:2に、「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです」とあります。
 私たちは「今既に神の子」です。霊によって生まれた神の子。しかし、肉体をもってこの世を歩んでいるので、まだ完成されていません。それで、ここでパウロが言うような、《異邦人のように生きるのか、キリストにあって、新しい人として生きるのか》と常に問われることになります。
 「新しい人」は、パウロが一貫して強調する真理の一つです。「古い人」とは、ここでは「異邦人」という言葉に代表されていますが、神から離れて霊的な命を失った人、すなわちアダム以来の全ての人間です。人は神から離れて、つまり「罪」によって、死ぬべき存在となりました。そこから逃れられる人はいせん。しかし神は、この私たちの「古い人」をキリストと共に十字架につけてくださったのです。「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています」(ローマ6:6)。
 私たちの内の「古い自分」は、十字架で終わりにさせられ、神は霊によって私たちを新しく生まれさせてくださいました。《罪と死の法則》から解放されて、《命をもたらす霊の法則》に入れられたのです。
 ただし、私たちの体はアダム以来の古い創造のもので、ここに刻み込まれた生き方(「肉」と呼ばれる)があります。そこで、私たちの魂は、「罪と死の法則」に乗って「肉の思い」に従うのか、それとも、「命の霊の法則」に乗って、神の霊によって魂を書き換えていただくのか、それを私たち自身が選択していくのです。もし、「肉の思い」に乗ってしまえば、罪が私たちの体を支配し、コントロールすることになります。
 そこでパウロは言うのです。私たちはすでに「古い人を脱ぎ捨てた」ではないか。そして「新しい人を着た」ではないか。その真理を、キリストにあって知ったではないかと。これらは全て神がなしてくださったことです。
 私たちは神による新創造、神の子です。神は、私たちを通してご自身を現したいのです。あなたの祈りに応えてあなたを用い、あなたを通して天のものをこの地上に現したい。だから私たちも、「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈るのです。