獄中の光

説教要旨(12月16日 朝礼拝より)
エフェソの信徒への手紙 6:21-22
牧師 藤盛勇紀

 パウロはいま獄中にあります。エフェソの教会には様々なことが伝えられて、混乱させられていたかも知れません。パウロはそうした状況も思いながら、エフェソの信徒たちの信仰がくじかれるようなことにならないか心配です。「パウロのような信仰者がなぜこんな目に遭うのか」「神は何をしておられるのか」とか、「救いはどこにあるのか」という叫びが上がるかも知れない。
 そこでパウロは、「わたしがどういう様子でいるか、また、何をしているか、あなたがたにも知ってもらうために、ティキコ」をそちらに送ると言います。それは、「あなたがたがわたしたちの様子を知り、彼から心に励ましを得るためなのです」。
 ティキコによって伝えられることによって「心に励ましを得」てほしい。ティキコという人については詳しいことは何も分かりませんが、「彼は主に結ばれた、愛する兄弟であり、忠実に仕える者」です。
 パウロは、獄中生活がいかに辛くて大変か、どんなに寂しいかを知ってほしいのではありません。弱音など聞いても励まされることはありません。パウロは、暗く辛い獄中にあっても《実は明るいのだ。私に対して神の恵みは十分だ。私はこの鎖につながれていても、祝福に満たされている。私に注がれた祝福は全く変わることがない。獄中の暗さ、悲惨さによっては、主の祝福はいささかも曇らされてるようなことはない》。この事実を知ってもらいたいのです。
 獄中生活はまさに信仰の戦いだったでしょう。しかし、パウロがエフェソの信徒たちに、神の武具によって完全武装して「強くなれ!」と勧めているように、パウロ自身、弱さの中で強いこと、いつでも喜んでいることを、エフェソの信徒たちが理解して、励まされてほしいのです。
 だからパウロは、自分のためにも祈ってほしいと願ったのです。なぜなら、同じ主に祈れば分かるからです。パウロとエフェソの信徒たちは距離も状況もかけ離れていますが、主において常に喜べるからです。
 「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。…主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」(フィリピ4:4~7)。
 「主において常に」喜べ、「主はすぐ近くにおられる」。私たちは主のもの、主に結ばれている者。いつでも、どこでもです。この信仰的事実、霊的事実を伝えるために、パウロはティキコを遣わします。彼は「主に結ばれた(主にあって)忠実に仕える者」。「忠実」とは信仰的という言葉です。単に誠実というだけでなく「信仰の人」。どんな状況にあっても、肉の目が見ている状況に縛られず、《見えざるものを見て》います。真っ暗な獄中にあっても、《しかしそこに主がおられる! 闇の中に光が輝いているではないか!》。信仰はこの事実を見ます。だから伝えることができるのです。
 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。…言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」。ヨハネ福音書の冒頭の言葉です。ヨハネは見える出来事としてのクリスマスの物語は記しませんでした。しかし明確にクリスマスを語っています。「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」。光は《暗闇の中で》輝いています。パウロの獄中にも輝いている。暗闇はそれを理解しない。しかしパウロもティキコも、理解している。喜んでいる。この喜びに、与ってほしい。だから、祈れというのです。命の言である主、命の光である主が、あなたの所にも、私の所にもおられるからです。