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計り知れない富

説教要旨(6月10日 朝礼拝より)
エフェソの信徒への手紙 3:7-9
牧師 藤盛勇紀 

 使徒パウロは自分に与えられている務めについて、「福音に仕える者としてくださいました」と言います。福音に仕える者として、倦まずたゆまず飽くことなく、昼も夜も休むことなく働き続けました。コリントの信徒への手紙で、「そうせずにはいられない」からだと言っています。駆り立てられているのです。何によって?「キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです」(2コリント5:14)。
 あのパウロだからなし得たのだと思う人もいるでしょう。「自分なんか、そんなことは」と思っていませんか? しかしパウロは、自分に与えられた「異邦人に福音を伝える」務めは、「神が」「私に恵みを賜り」このような者としてくださったと語ります。このことを知ってほしい、見てほしいと。
 一方パウロは、自分のを「聖なる者たちすべての中で最もつまらない者」だと言います。極端な謙遜、自己卑下にも聞こえます。パウロは謙遜しているのでしょうか? しかしパウロは、「私なんか」などとつまらないことを言う人ではありません。そんな謙遜は偽りの謙遜です。自分は「罪人のかしら」だとさえ言いますが、それは罪人の中で最低だと言いたいのではなく、神の恵みの中で、その恵みを受ける理由が自分の内には何一つないことを言いたいのです。
 パウロが見ているのは常にただ神の恵みと愛です。自分にはそれに相応しい何の値打ちもない。自分が神のためにしたことは、全力で神の教会を迫害したことだけ。そこで人間の謙遜など、何の意味もありません。
 パウロがここで言っていることは、ただ「神が」です。「神が」私を捕らえ、「神が」私を用い、「神が」その御計画のために私を「異邦人への伝道者」としておられる。なのに、「私はそんな…」などと言えば、腐臭がするだけです。
 この時代、異邦人に伝道するとは、トンデモナイことでした。異邦人は汚れた者、祝福から漏れた者、挨拶さえするのも汚らわしい。そんな遠すぎる異邦人に福音を伝え、「あなたのために神の御子が血を流された。あなたは祝福されている。神の子とされてる」と語るなど、あり得ないことでした。あのペテロも伝道を始めてしばらくは、異邦人が救いに入れられるなど、思いもしなかったことでした。
 そのペトロのガチガチの頭を変るために、神は幻を通し、汚れたものを食べよと3度も迫り、コルネリウスとの出会いを通して異邦人と出会わせてくださいました。パウにとっても、異邦人伝道は誇らしいことではありませんでした。しかし「神が」その務めにつけてくださった。それがパウロの誇りでした。「誇る者は主を誇れ!」
 福音を告げ知らせる、それは「キリストの計り知れない富について」の福音です。私たちもキリストの恵みを知っていますが、その計り知れない豊かさを知っているでしょうか? 計り知れないとは、「歩ききれない」「知っても知っても、知り尽くせない」ということです。恵みをどれほど味わっても、その深さ広さは果てしないのです。
 それを私たちは信仰生活で味わって生きられる者とされています。だから味わうべきです。どれほど味わい、恵みに浸っても、知り尽くせないのですから。パウロはこの恵みを知ったから、与えられた任務も使命も知りました。驚くべき働きをなしたのも、計り知れない富、神の計り知れない恵みと豊かさに触れていたからです。
 だから、あなたが神のために何をするかよりも、「神が」あなたをどうなさるかを知るべきなのです。あなたが知るべきは、無尽蔵な恵み、計り知れない富です。あなたを恵み祝福されるお方は、あなたを用いるお方です。もし、神のためにできることがあるとすれば、自分をお献げすることです。献げて用いられて、恵みと富の計り知れなさを、実地に歩いて味わっていくのです。