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キリストが愛された教会

説教要旨(9月30日 朝礼拝より)
エフェソの信徒への手紙 5:21-28
牧師 藤盛勇紀

 「妻たちよ…、夫たちよ…」と命じます。現代では最も評判の悪い聖書の箇所の一つです。6章に入ると、子供たち、父親たち、奴隷たち、主人たちよ、と呼びかけられます。パウロは家庭のことを念頭に置きながら、何を言おうとしているのか。一言で言えば「互いに仕え合いなさい」(21)です。前回触れましたが、18節の「霊に満たされて」は、21節以降までかかっています。
 前回、2枚のOHPシート(二重の層)のたとえで、この地上の次元と霊的・天上の次元の話をしました。世の様々な存在や現象や関係を通して、私たちは「見えない次元」「天の霊的な領域」を見ています。32節に、「キリストと教会について述べているのです」とありますが、今日の箇所でも、「キリストが教会の頭で(あるように)」、「教会がキリストに仕えるように」、「キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように」、「キリストがそうなさったのは」とあります。今生きておられるキリストを見ているのです。私たちは、このキリストによって、すでに清められ、聖なるものとされて、「しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く」ものとして、主の前に立てるのだと言います。
 しかし、人間が切り結ぶ様々な関係は、常に人間の都合によって「結んだ、切った」「つながった、離れた」となります。だから人はいつでも何か確かなつながりを求め続けています。血縁より地縁だ、共通の理想だ、人間愛だ、人類皆兄弟だ、命への畏敬だ、命のきずなだ…と。共通の価値と言えそうなものを片っ端から引っ張り出してきますが、どれも本当には人をつなぎ得ません。そして、「愛し合えない」という現実を思い知らされるのです。
 「キリストと教会について述べている」。教会とは、キリストの血によって贖い取られ、神のものとされた私たちのことです。そのキリストが私たち一人一人の内に、そして私たちの間に生きておられます。「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしておられる方の満ちておられる場です(充満なのです)」(1:23)。
 私たちはこのお方によって全ての罪が赦され、神との関係を回復させられ、神の命に与りました。このキリストの愛から、どんなものも私たちを引き離すことはできません。この方の充満の中で生かされている私たちを通して、その欠けにもかかわらず、キリストの愛が映し出されるのでしょう。
 キリストが教会をどう愛されたか。ここでは、「言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし」とあります。洗礼のことです。洗礼とは、まずキリストに結ばれて死ぬことです。イエス様は罪の贖いのために血を流し命を捨てられました。洗礼を受けた者は、この方の死に結ばれ、その血によって洗われたのです。そして、主に結ばれて「新しく生まれた者」とされました。目で見ても分からないけれども、すでに古い自分に死んで、神によって生まれた神の子とされているのです。
 この事実も「二重」写しです。私たちは、この地上と天、五感で捉える物理的世界のレベルと万物を存在させたお方の霊的レベルに生きます。あなた方は地に属する者ではなく天に属する者だと主は言われました。真の神であり真の人であるイエス・キリストが、私たちを御自分と一つとしてくださり、世に遣わしてくださったからです。
 だから私たちは、この地上の現実だけを見て絶望せず、あきらめず、虚無にも陥りません。「死んでも生きる」しぶとさがあります。私たち教会、神の民は「キリストの花嫁」と聖書は語ります。花嫁が花婿を見つめるように、「キリストがしてくださったように」といつも思い、この「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」(ヘブライ12:2)生きるのです。