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罪人を招くイエス

説教要旨(6月17日 花の日・子どもの日合同礼拝より)
マルコによる福音書 2:13-17
牧師 藤盛勇紀 

 イエス様が収税所を通りかかった時、そこに座っていたレビを見て声をかけられました。「わたしに従いなさい」。何の前置きもない、突然のお言葉です。ところが、これまた何の説明もなく「彼は立ち上がってイエスに従った」というのです。
 その後、イエス様はレビの家で食事をしておられたと話が続きます。この食事が、ファリサイ派の人々から非難されます。「どうして徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」。直接非難されたのは弟子たちでしたが、イエス様は弟子たちをかばうようにお答えになりました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。
 ファリサイ派の人々は、いつも真面目で正しい人です。徴税人のようにずるいことをしてお金をもうけることなどしないし、禁じられていることをしてしまうこともない、だから神様の祝福も受けている、と思っていました。しかし、「罪人」というのは、神様の恵みから漏れてしまったと思われていた人々です。もう自分は何のために生きているのか分からないし知ろうともしない。「どうせ俺なんか、嫌われ者だ」と人生を諦めるか、開き直るしかないのです。周りの人々は、「悪いヤツらだ」「罪人だ」と指を指し、挨拶もせず、まして一緒に食事をすることなどありませんでした。
 けれども、イエス様はそうした罪人に同情なさったのではありません。単なる同情は、開き直って座り込むレビに寄り添って、悲しみや辛さを分かち合うだけです。しかしイエス様は、彼らに同情されたのではなく、彼らを憐れまれたのです。
 同じ話がマタイ福音書にもありますが、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」と言った後、主は預言者ホセアの言葉を引用してこう言われました。「『わたし(主なる神)が求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい」。
 神様は憐れみを求めておられます。イエス様は、憐れみによって罪人を癒やす医者なのです。座っていたレビを召されたのも、罪人たちと一緒に食事をなさったのも、神の憐れみによって彼らを癒し、引き上げ、立ち上がらせて、生かすためでした。
 イエス様は、座り込んでいたレビをご覧になって憐れまれました。そして立ったままで、「わたしに従って来い!」と言われたのです。これがイエス様による神様の憐れみであり、癒しでもありました。「わたしに従え」という主の命令が、希望を失い、命を見失い、開き直って座っていたレビを引っ張り出して、立ち上がらせたのです。
 主の憐れみは創造的です。新しいことをなさいます。「どうせ俺なんか」と座り込む罪人を立ち上がらせ、主に従う者とします。徴税人のレビはイエス様から招かれて、神の憐れみに触れました。そして「彼は立ち上がってイエスに従った」。座っていたレビは、「立ち上がった」のです。イエス様の憐れみと招きが、レビ自身が思いもしなかった所に、彼を立たせることになったのです。
 「私に従いなさい」。この招きは誰にでも与えられています。生きる意味も目的も分からないと思っている人にも、疲れ果てている人にも、病気の人にも、もう人生が終わろうとしている人にも、主は「私に従って来い」と召しておられます。なぜなら、生きるにしても死ぬにしても、私たちは主のものだからです。
 「私に従え」と命じられる主は、私たちが進むべき道、行くべき場所をも備えていてくださいます。私たちが主に従う時、み言葉に聞いて立ち上がる時、何をすればよいのかが分かってきます。思いがけず示されます。招きに応えれば、そこに道があるのです。主ご自身が道なのですから。