神の親心

説教要旨(10月21日 朝礼拝より)
エフェソの信徒への手紙 6:1-9
牧師 藤盛勇紀

 教会の映画カフェで「アメイジング・グレイス」が上映されました。18世紀末のイギリス、奴隷貿易廃止運動に身を投じた政治家ウィルバーフォースが主人公ですが、大西洋奴隷貿易でアフリカ原住民が奴隷とされたあの時代とパウロの時代とでは、かなり違います。パウロの時代は教会にも奴隷がいて、その主人もいるという状況です。
 奴隷のない社会が良いに違いありません。しかしパウロが書いていることは、どのような社会を形成するかがテーマではありません。パウロはこの手紙で、私たちは天地創造の前から神に愛され、キリストにおいて選ばれ、神の子とされ、キリストに結ばれて「キリストの体」とされている恵みを語ってきました。キリストの体の肢であり神の子である私たちは、「光となっている」のだから、「光の子」(5:8)として歩みなさい、とも勧めます。
 イエス様も「あなた方は世の光である」(マタイ5:14)と言われました。そのともし火をテーブルの下に置く者はいない。燭台の上に置く。すると周りが照らされる。そのように、光であるあなた自身を輝かせ、そんなあなたを見て、人々が天の父を(あなたを、ではなく)崇めるようになる、と言われるのです。
 ウィルバーフォースが早朝、濡れた芝の上に寝転んで、親しく神に呼びかける場面がありました。イギリスなのでいつも曇りか雨。朝の芝生も濡れている。なのに、気持ちよさそうに寝そべるのです。「あなたが祈る時は、隠れた所におられる《あなたの父に》祈れ」とイエス様が言われたように、彼も父との交わりの中に身を置いているのです。ところが、それを使用人が見つけて、「旦那様、何しているんですか?」と不思議がります。ウィルバーは恥ずかしそうにします。父なる神との交わりは他人には分からないのです。彼も自分の父に祈る時、最もリラックスしています。この《父との親しい交わり》。それを味わっている者の幸いを輝かせよ、「人に知られるようになさい」(フィリピ4:5)というのです。
 これは、人間社会をどうするかによって実現されることではありません。むしろその前提なのです。若きウィルバーは、牧師となって神に仕えるか、政治家としてやっていくかで揺れます。しかし、どんな生き方もどんな道も、神との交わりと神の命に生きること、そこから始まります。世界も人間も、神がご意志をもって、神の愛と喜びをもって造り存在させられたからです。
 「子供たち、父親たち」との呼びかけで、「十戒」の第5戒が引用されます。十戒の前半は神との関係を語り、後半は人と人との関係、社会関係を語ります。第5戒は両者をつなぐ位置です。一般に、親子関係は単純に自然なつながりだと思われています。しかし聖書は、神から受け止め直します。
 子供が生まれてしまったから私たちは親なのではない。ある人から生まれてしまったから子供なのでもない。私たちは神によって存在し、神によって生まれたのです。だから、私たちが今ここにこうあるのは、神に理由がある。私たちは神に呼ばれて、ここにいる。私たちは《神に召された者》。
 生まれたままの自然の人間は、神から離れたままの人間です。だから造り主なる神とその御心を、その愛を、その慈しみを知らなければならないし、知らせなければならないのです。《あなたの真の産みの親》はこの方なのだと。その方の私たちに対する愛の御業を伝えるのです。
 私たちがこの世界に置かれているのも、私たちの主なる神、慈しみと愛の神と、どこまでもどこまでも変わらない祝福を、この地に現すためです。それは、奴隷であろうが主人であろうが、そこで現すことができます。神は、私たちがどんな者でも、どんな所に置かれても、私たちを用いることができる方だからです。