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とれない弾丸

説教要旨(6月24日 朝礼拝より)
ヨハネによる福音書 8:1-11
伝道師 山下瑞音

 実はこのお話は、罪ある人が赦されて解放されたというような、単純な話ではありません。まずイエス様は、女性と二人きりになるまで、この女性に関わることをなさっていません。イエス様がなさったことは、群衆に対して、自分自身のことをよく考えたうえで、自分の行動を決めなさい、と言っているだけです。そして一方の女性の方も、罪の償いらしいことは何もしていません。彼女からすれば敵が勝手に自滅しただけです。正しさを証明したわけでも、罪を償ったわけでもない。何か心の中にモヤモヤが残るお話です。しかしだからこそ、私たちはこの出来事から神様の赦しの大きさを知ることが出来るのです。
 以前、ある講演の中で、「とれない弾丸」の話を聞いたことがあります。人は皆、誰かを傷つけたり、あるいは自分が傷つくという経験をして、とれない弾丸として心に残ってゆくというのです。そして取り出すことのできない弾丸は時折痛み始める。しかし私たちはある時、それもまた神様の恵みなのだということに時気付くのだというのです。
 この女性がこの後どんな人生を送ったのか、聖書には何も書かれていません。そしかしこの女性は、生涯この出来事を忘れることは出来なかったはずです。なぜならこの出来事は、彼女の中で取れない弾丸として残ったからです。もしイエス様が群衆を完膚なきまでに叩きのめしていたり、あるいは、イエス様がこの女性に罪を償うための課題を出して罪を償うことが出来たのであれば、彼女は満足してこの出来事を過去のことに出来たことでしょう。しかし、この出来事はそうではありません。この女性は罪を償わなかった。そしてイエス様も、問題提起をなさっただけです。しかしその中で、何かが変わったのです。だから、この女性だけではなくてこの場にいた人全員の心の中に、この日の出来事は取れない弾丸として残ったのです。心の弾丸は取り出してしまえば傷はいえてゆき、過去の出来事となってゆきます。しかしこの出来事は、過去のことにすることは出来ません。なぜなら「なぜ、私はゆるされたのか」という問いに自分では答えることが出来ないからです。
 私たちも同じです。私たちは神様によって赦されました。しかしいったいなぜ赦されたのか、私たちには分かりません。ただ赦されたという事実があるだけです。だから私たちは自分の罪が赦されたということを、過去のことにすることは出来ません。私たちは赦されたことを決して忘れることなく、いつまでたっても胸の奥に残り続けているのです。このお話に出てくる人は、イエス様以外みな罪人です。
 群衆も、助かった女性も罪人でした。そしてみんな赦される必要がありました。だから、イエス様はあらゆる人をお赦しになりました。イエス・キリストの十字架は、ここで命を助けられた女性のためだけではなく、ここでこの女性を殺そうとした人たちのためのものでもあります。この出来事のなかで、イエス様は誰が罪人で誰が正しいのかということではなくもっとも根本的な問題を解決なさっています。つまり、相手ではなくて、神様と自分自身を見なさいということ。本当の裁きとは、人間同士の中ではなくて、神様と自分自身の中で解決してゆくものだということ。そのことを、イエス様はこの個所で示されているのです。そしてそのうえで、イエス様は、私たちに「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」と仰っています。これは、私たちが罪赦されてものとして生きてゆくことが出来るという、イエス様の宣言に他なりません。
 だから、私たちはイエス様によって示された赦しを喜びながら、新しく生まれ変わって、罪を犯さないものとして生きてゆくことが出来るのです。