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主の愛を味わう

説教要旨(7月15日 朝礼拝より)
エフェソの信徒への手紙 3:14-21
牧師 藤盛勇紀

 パウロは繰り返し神の豊かさを語ってきましたが、この祈りにおいても語ります。父なる神は、何よりも誰よりも私たちと親しい方、あらゆるものがこのお方から流れ出、存在するものの根源、生ける者の命の源です。「天のあらゆる霊的な祝福」で私を満たしてくださっているお方。その方が「豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように」。
 「内なる人」とは、「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」(2コリント5:17)と言われる、新創造による「新しい人」、神の霊によって霊から生まれた、神の子としての私たちです。私たちの命は主の霊ですから、霊によって生かされ強められます。どのようにしてかというと、私たちの心の内にキリストが住まわれることにより、その愛に根ざし、その愛に立って生きる、というのです。
 「愛に根ざし、しっかりと立つ」と聞くと、「神の愛を知った私たちも人を愛さなければ」と考える人がいます。しかし、「愛に根ざす」とは、人を愛したり人から愛されたりということよりもはるかに大きく、深く、確かなことです。たとえ人から愛された経験がなくても、人から見捨てられたとしても、人を十分愛せなかったとしても、そんなことでは決して失われない真実です。
 人の愛は、どれほどしっかり握ったつもりでもこぼれてしまい、すり抜けてしまい、冷めてしまいます。しかし、神の愛は違います。私たちがどうであろうと、神はそれにもかかわらず、私たちを決して手放すことはありません。
 そのように愛されるために、私たちは神に対して何をしたというのでしょうか? 神を疑ったでしょう。見限ったでしょう。「こんな悲惨な経験を許すとは、神は何をしているのか」と糾弾したでしょう。もしも神がここに体をもって現れたら、人間は一斉に襲いかかって袋叩きにし、血祭りに上げるでしょう。実際、人はそうしたのです。そして、神はそれを引き受け、犠牲の血を流され、それによって私たちの罪がキャンセルされたのです。
 愛に根ざして生きるとは、この方の愛を知って生きることです。「人を愛せるか」とか「人から愛されたか」と問うような、キリキリした生き方ではなく、愛を味わい知って生きるのです。「あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」と。
 「聖なる者たち」とは、神のものとされた私たちです。神の大事な作品、神の愛子、神のお気に入りである私たちは誰でも、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを理解し、愛を知り、神のあふれる豊かさのすべてにあずかって満たされるのです。
 それはまさに人知を超えますが、私たちはその「広さ、長さ、高さ、深さ」を、自ら味わい知るのです。「味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。……主に求める人には良いものの欠けることがない」(詩編34:9,11)。良いものを「主に」求めるのです。人に求めるから、おかしなことになってしまうのです。主にこそ、「人の知識をはるかに超えるこの愛」があり、私たちを「天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださっている」からです。
 こうして、私たちがキリストに結ばれ、互いに神の豊かさに充ち満ちる。そが教会です。「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場(充満)です」(1:23)。