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ここから見れば

説教要旨(11月11日 朝礼拝より)
マタイによる福音書 16:13-16
伝道師 山下瑞音

 イエス様の問いと弟子たちの答えは、当時からイエス様に対して様々な意見がことを思わせます。しかし実はここで弟子たちが言っているイエス様への評価は、全体のごく一部です。例えばルカ伝の7章34節ではイエス様を「大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」という風に言う人が出てきます。またマタイ伝の9章にはイエス様を神の冒涜者、悪霊の仲間だと言う人が登場します。こうやって見ると、イエス様への評判は決して良いものだけではなく、いろんな意見や評価があったことか分かってきます。
 その中で、イエス様は「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と仰るのですが、ここでイエス様が訊ねておられるのは、単純に私たちがイエス様を好きか否かというような次元のことではありません。ここでイエス様が問うておられるのは、イエス様のことよりもむしろ私たちのこと、つまり「私たちは一体何者なのか」ということなのです。イエス様をどう見るかということは、その人がどこに立っているかということと直結しています。それはどこに立つかによって、イエスと言う人の見え方は全く変わってくるからです。そうやって考えてみると、このイエス様の問いかけは、突き詰めてゆくと「あなたはどこに立っているのか」ということ、さらに「「あなたはいったい誰なのか」ということを問うておられることが分かってきます。
 では、私たちはどこに立って、イエス様をどのように見るのでしょうか。これこそが、「あなたはメシア、生ける神の子ですという答えです。なぜなら、私たちはクリスチャンだからです。クリスチャンという言葉は、元々は「キリスト主義者」というキリスト教徒への蔑称でした。つまり、非難するニュアンスが、クリスチャンという言葉にはあったのです。
 しかし、キリスト教徒はあえて自分たちのことをクリスチャンと呼ぶようになりました。それは、確かに自分たちはキリストに希望を置き、キリストに救われたと信じているのだということをしっかりと自覚し始めたからです。そして私たちがクリスチャンとしてここに立っているのだということが分かれば、イエス様だけではなくてこの世界全体の見え方も変わってくるはずです。
 先週は逝去者記念礼拝だった。礼拝の後、記念会に出席してみて思うのは、私たちの教会は今まで本当にたくさんの兄弟姉妹を見送ってきたということです。私たちの教会には、いつも親しい人を見送ったばかりの人の姿があります。しかしその中あってなお、私が葬儀のたびにいつも感じることは、教会の葬儀はただ悲しむだけではなくて、その先に希望があるということなのです。たとえ会えなくなったとしても、肉体は燃やされて亡くなってしまったとしても、私たちは終わりではない。私たちはまた会うことが出来る。そう確信することが出来るのは、私たちがクリスチャンとしてイエス様の姿を見て、「イエス様こそ神の子です」ということが出来るからです。
 そしてここから見れば、あらゆるものの見え方が変わってくるのです。死は終わりではないということ。私たちには新しい命が待っているのだということ。そしてそれはあの十字架によって約束されているのだということ。それが、ここから見える景色なのです。
 イエス様は私たちに問われます。「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。そして私たちが自分はいったい何者なのか、何を喜びとして、どんなことに希望を置くのかということを考えるときに、答えるべき答えはただ一つです。すなわちそれが、「あなたはメシア、生ける神の子です」という答えであるということ、この大きな恵みに感謝しつつお祈りしたいと思います。