主は一人

説教要旨(7月22日 朝礼拝より)
エフェソの信徒への手紙 4:1-6
牧師 藤盛勇紀

 「主に結ばれて囚人となっているわたし」パウロは、主のものとされているがゆえに囚われの身となっている、だから何を悲しむことがあるか、むしろ栄光なのだ、喜べと言います(3:13)。いつでもどこでも喜べる、その根拠をこの手紙の最初から語ってきました。そしてここで改めて勧めます。「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい」。
 「一切高ぶることなく」は、「謙遜」とも訳されますが、良い意味では使われない言葉でした。「わざとらしい、見せかけ」という含みがあり、「偽りの謙遜」とも訳されます。ですから、後に続く一連の言葉とセットで理解すべきです。謙遜に、柔和で、寛容をもって、愛をもって互いに忍耐することは、「平和のきずなで結ばれる」ことすなわち「霊による一致」を目指して言われています。「霊の一致」とは、神にあって一つ。「平和(=平安)のきずな」は、神の「平安に囚われている」ことです。それを「保つように努めなさい」というのですから、「謙遜になろう、柔和になろう」といった人間の努力とは無関係です。
 では、どう努めるのか。それは、私たちは誰に招かれ、何につながれているのかを、一人ひとりが知っていること、その恵みに留まって、感謝し喜んでいることです。キリスト者は洗礼を通して一つの体、キリストの体に結ばれましたが、「それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです」。
 人はそれぞれの「希望」をもって生きています。何を希望とするかによって生き方が決まり、態度も変わります。しかし、その希望が実現したとしても、それで本当の平安や喜びが得られるわけではありません。それらは全て消え去るものだからです。人間が生む希望は、「一つの希望」にはなりません。「一つの希望」とは、人間が欲するものではなく、神が願い、神が欲し、神が私たちに与え、約束してくださったものです。
 パウロがここで勧めていることは、人として互いに頑張ろう、ということではなく、「霊の一致」ですから《神による》のです。その方の「招きにふさわしく」なのです。
 私たちを招いてくださったお方は、真に柔和で、真に謙遜で、十字架の死に至るまで従順なお方です(フィリピ2:6~8)。主が低くへりくだられたのは、私たちを神の子として取り戻し、神の命に生かすためでした。
 主イエスの従順は、私たちを愛する父なる神に対する従順です。この父の愛と、私たちのための御子の十字架の死を知った時、私たちは、その愛の交わりにある「平安」を知るのです。それが、「平和(平安)のきずな」です。これをお与えくださったお方が、私たちの真の主、一人の主。この方に結ばれる信仰も一つ、洗礼も一つです。
 こうして私たち一人ひとりが、直接一人の主に結ばれ、その平安につながれます。だから人に対して高ぶる必要もないし、他の人がどうであろうと、不平不満を言う必要もありません。もし、不満や思い煩いが起こったら、それを人にぶつけるのでなく、神に申し上げるのです。全てをご存知の神に「感謝と願いを込めて、打ち明ける」のです。そこに、人知を超える神の平安が、あなたの心と考えとを守るのです(フィリピ4:4~7)。人による平安ではなく、私たちの主、あなたの神の平安です。
 「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられ」ます。この一人の主につながれている一致こそ、私たちの「平安のきずな」であり、「一つの希望」です。
 






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8月5日朝礼拝「成熟した人とされる」

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7月29日朝礼拝「一人ひとりへの賜物」

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